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 考えないことだ。明日がどうなるのか。戻ってこない囚人はどこへ行ったのか。立ち上る煙の意味は。SS(親衛隊)の指先が分ける(レヒツ)(リンクス)、どちらが地獄なのか。あるいはどちらも?  あるのは、この一瞬だけ。この一瞬の音に、どれだけ心を震わせるか。  ――だから、そんな顔しなさんな! 音楽って良いだろうが!  目の前を通り過ぎていくボロ切れたち。そいつらに届けとばかり、俺はヴァイオリンをかき鳴らす。  あいつは思想犯(アカ)だがユダヤ人嫌いはナチスと一緒だ。俺もひどく殴られた。ここに入れておくのは勿体ない、立派な反セム主義者(アンティ・ゼミート)。なあ、殴ったのは許してやるから、インターナショナルでも聴いてみないか?  力なく引きずられてるあいつは、エホバの証人。それが今では気力を失くしきって、イスラム教徒(ムーゼルマン)になっちまった。ぐったりとした様子が、礼拝の様子にそっくりなんだ。先生、お祈りに音楽はいらないのかい?  ピンクの囚人章。ホモ野郎だ。同じ()()監視員(カポ)に取り入って、良いもの食ってやがる。あんた、仕事でも楽させてもらってるんだろ? 俺の曲を聴く余裕ぐらいないもんかねえ。  無気力な無表情な無感動な灰色の、顔、顔、顔! 誰も俺の音楽を聴かない。聴いてくれない。通り過ぎる。  ――聴いてくれよ!  俺にはもう他に何も残っていないんだ。家族はいない。殺された。友人知人も。家も財産もない。祖国なんて始めからない。誇りもなくした。自分で捨てた。  音楽だけ。この卑怯な楽士に残されたのは。あと何ヶ月……ひょっとしたら何日、何時間? 残された時間を、顧みられない曲を奏でて潰すのか。滑稽に、無為に。ああ、まるで道化だ。  トランペットが派手に音を外した。  一度くらいなら仕方ないが、その後も音程が定まらず、無様な旋律を垂れ流している。  ――何をやってやがる。  俺はトランペット吹きを横目で睨んだ。まだ若いポーランド人だ。顔を真っ赤にして、腕を震えさせて、それでも楽器を吹き続けている。勝手に手を止めたら何をされるか分からないのだから当然か。その気力は認めてやろう。だが、俺の音楽を邪魔したのは許せない。
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