779人が本棚に入れています
本棚に追加
/269ページ
****
正直営業に行きたくない気分の時もある。先生方はMRを同じ人間と思っていないふしがある。見下すような目で見られたり無視されたりすると流石に心が痛む。
よく母がそんな目をして私を見ていた。就職活動で思うような結果が得られず自信をなくしていたとき、母は私に言った。
「就職すらできないの? ほんとあんたは落ちこぼれね。まあ、分かるけどね。私が社長ならあんたみたいな子雇わないもの」
最も傷ついた言葉だった。
「なんだ、景気が悪い顔だな」
嫌なことを思い出して、凹みながらドクター専用駐車場を歩いているときだ。突然声をかけられた。
「橘先生」
呼吸器内科の橘先生が煙草を吸っていた。
「名前を覚えているのは感心だな」
坂口憲二似の橘先生が笑うとなんだか豪快で清々しい感じがする。
私はふと橘先生が寄りかかっている車に目を止めた。黒のノアのトランクには大きなラブラドールレトリバーが描かれていた。
「先生犬を飼っていらっしゃるのですか?」
「ああ。この犬」
「ラブラドールレトリバーですね」
私の言葉に橘先生の目が柔らかくなった。
「ああ。犬好きなのか?」
「好きです」
「そうか」
橘先生が吐き出す煙草の煙がゆっくり空へと上がる。
「先生、煙草吸われるんですね」
「まあな。それで禁煙外来してる科ってのもなんだが」
「ほどほどにされてください。身体壊したら大変ですよ」
言ってから、しまったと思った。また失敗した。MRにこんなこと言われていい気がするわけない。
「は、はは。お前変わってるな」
橘先生は気に障った様子もなくあっけらかんと笑った。
「すみません」
「ま、ストレスが多いから仕方ない」
「そうなんですね」
「お前もこんなところでくっちゃべってないで、営業行け。今野さんに怒られるぞ」
「は、はい。すみませんでした。行ってきます」
「おう」
ただそれだけだった。だが、医局長の橘先生とこんなに話したのは初めてだった。橘先生の印象がかなり変わった。どこか怖い印象があったが、気さくな一面もあるのかもしれない。
最初のコメントを投稿しよう!