一人で回るって難しい

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****   正直営業に行きたくない気分の時もある。先生方はMRを同じ人間と思っていないふしがある。見下すような目で見られたり無視されたりすると流石に心が痛む。  よく母がそんな目をして私を見ていた。就職活動で思うような結果が得られず自信をなくしていたとき、母は私に言った。 「就職すらできないの? ほんとあんたは落ちこぼれね。まあ、分かるけどね。私が社長ならあんたみたいな子雇わないもの」  最も傷ついた言葉だった。 「なんだ、景気が悪い顔だな」    嫌なことを思い出して、凹みながらドクター専用駐車場を歩いているときだ。突然声をかけられた。 「橘先生」  呼吸器内科の橘先生が煙草を吸っていた。 「名前を覚えているのは感心だな」  坂口憲二似の橘先生が笑うとなんだか豪快で清々しい感じがする。  私はふと橘先生が寄りかかっている車に目を止めた。黒のノアのトランクには大きなラブラドールレトリバーが描かれていた。 「先生犬を飼っていらっしゃるのですか?」 「ああ。この犬」 「ラブラドールレトリバーですね」  私の言葉に橘先生の目が柔らかくなった。 「ああ。犬好きなのか?」 「好きです」 「そうか」  橘先生が吐き出す煙草の煙がゆっくり空へと上がる。 「先生、煙草吸われるんですね」 「まあな。それで禁煙外来してる科ってのもなんだが」 「ほどほどにされてください。身体壊したら大変ですよ」  言ってから、しまったと思った。また失敗した。MRにこんなこと言われていい気がするわけない。 「は、はは。お前変わってるな」  橘先生は気に障った様子もなくあっけらかんと笑った。 「すみません」 「ま、ストレスが多いから仕方ない」 「そうなんですね」 「お前もこんなところでくっちゃべってないで、営業行け。今野さんに怒られるぞ」 「は、はい。すみませんでした。行ってきます」 「おう」  ただそれだけだった。だが、医局長の橘先生とこんなに話したのは初めてだった。橘先生の印象がかなり変わった。どこか怖い印象があったが、気さくな一面もあるのかもしれない。
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