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 僕は白衣を着て、生物室にいた。今日は水槽の掃除をしないといけない。名前も知らないあの小さな魚。誰が何の為に飼育しているのか定かでないあの魚。この水槽は一体いつからあると言うのか。そのアクリル面はすっかり藻に覆われてしまって、見えるのは蛍光灯に反射して、たまにきらきらと光る銀色のその鱗だけ。全部で何匹いて、どんな風に生活しているのか誰も知らない。忘れられた魚たち。そして今日その存在は、この水槽を洗い終えれば思い出されることになる。他にも数名の科学部員が集まっていた。僕と同じように白衣を着て、一人は網を、一人は水の入った代わりの容器を持っていた。僕はそれをただ近くで見ていて水槽から魚を移し終えたら、それを洗おうと思っていた。一匹、二匹と魚の移動は滞りなく進んでいた。しかし僕の手がほんの僅かに水槽に触れた瞬間、一匹の魚が大きく跳ねた。大きく跳ねて、生物室の冷えたタイルの床へと落ちた。そしてそこで跳ねているうちに、それは外へと飛び出して、白く滑らかなコンクリートの上に落ちてしまった。それはタイルと違って、それからあっという間に水分を吸い尽くした。そうして広がった灰色の染みが、それを磔にしたかのように見えた。ああ、死んでしまう。そうなるともうどうしようも無くなって、僕はとても悲しくなった。僕の手が、この忌まわしい手が、ほんの少し水槽に触れた。あの瞬間までは、全てが上手くいっていたのに。すると室内にいた二人もやって来て、その場に座り込んで悲しんでいる僕を、冗談のように笑い飛ばした。僕は忽ち息が苦しくなって、身体が上手く動かせなくなった。そして僕はやっとの思いで二人を見上げると、彼らのすぐ横に立ち、見下ろし泣いている僕がいた。
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