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真夜中。
男はランニングウェアに着替え、独り暮らしの部屋を静かに出た。
昼の蒸した空気も夜の闇に冷やされ、涼しくなっている。
どこかで気まぐれな蝉が鳴いた。
住宅街ではあるが、田舎ゆえに街灯は少ない。その上、深夜なので誰と会うこともない。気楽だ。いつものコースをいつものペースで走る。体が軽い。快調。ぐんぐんスピードをあげる。
前方に動くものが見え、一瞬、身構えた。
なんだ自転車か。
いや、なにかがおかしい。なにかが。
男の動物的直感は捉えていた。
自転車をこぐ者の放つ異様な空気を。
違和感の正体を突き止める間もなく、自転車は男の横を走り去った。キーキーと錆び付いたチェーンの音が耳障りだった。それに、生臭い残り香が鼻を刺激した。まとわりつく悪寒を振り払うようにもっとスピードを上げた。
男はすれ違った者の顔を思い出そうとした。
しかし、無理だった。なぜだ。自分が視線をそらしていたからか。暗いからか。いや違う。男は気づいた。
あれはトレーナーのフードを目深に被っていた。
トレーナー?夏なのに?
違和感の正体がわかった途端、様々な妄想が膨らみ恐ろしくなった。この先には昼間でも近づくのをためらうような雑木林がある。さっきのあれは殺人鬼で、雑木林の奥で残忍な犯行に及んだ直後だったのかもしれない。生臭かったのはもしや血の臭いではないのか。トレーナーを着ていたのは返り血を隠すため?
しかし、引き返すわけにもいかない。引き返すということは自転車を追いかけるということになる。男は悩んだ末、このままいつものコースを疾走することに決めた。雑木林の横は全力で駆け抜けよう。
その時だった。
キー、キー、キー、キー
背後からあの耳障りな音がした。
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