体温なんかなくても

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「ゆうじ」  シングルベッドに横たわる、白いネグリジェを着た女性が、愛しげに僕をそう呼んだ。  この人が誰なのかも知らなければ、呼ばれたらここにいた。  しかも、後ろから抱きしめているという状況。  呼んだというか、この女性が心の中で僕を創造し呟いたという方が正しい。  その時から僕は生まれ、”ゆうじ”という名前の男で彼女の彼氏になった。  嬉しいかどうかといえば、よくわからない。  僕は彼女の創造上の彼氏でしかないのだから。  彼女からすれば僕は実体がない。  それなのに、彼女は、僕の腕の中でこの上なく幸せそうに眠りについている。  その寝顔をみて僕は、彼女に呼ばれた理由を理解した。 *  彼女の名前は”さき”というらしい。 「さき、好きだよ」と僕に言わせたことで知った。  さきは仕事中にも度々僕を呼んだ。  そういう時は決まって、トイレの狭い個室に籠もり、さきの心が重く沈んでいるときだった。 「またミスしちゃったの」  さきが、僕の胸に頭を預ける。僕はその柔らかい髪を撫で続けて優しく抱き締める。 「でもね、わたしだけが悪くないんだよ。悔しい」 「知ってる。さきはいつも頑張ってるよ」  さきの首を大切に抱き寄せる。  涙がさきの頬からぽたっと滑り落ちた。  僕の体温を感じようとしているようだった。  腕の中にいることに集中していたから。  強く、抱き締めてみても、お互いの熱を感じる術はない。  それでもさきは安心しているようだった。  何か体温に代わるものを感じ取ったのだろう。  体温なんかなくても、僕はいつでもさきを抱き締めてあげられるんだ。  それだけでいい。  そのためだけに僕は存在しているのだから。
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