溢れた世界 壱

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 やっぱり来なければ良かった。きっと、焦ってどうかしていたのだ。  考えてみれば、すっかり日の落ちたこんな時間に、狭い路地に分け入って来てしまったことの方が、よっぽど危険ではないか。明日もう一度、警察に相談しよう。  通りを出てバス停まで早足で歩き、ようやく小さく息を吐く。 「次のバスまであと十分、か」  家まではバスで十分程度。  駅から電車に乗っても良いが、それだとトータル三十分かかってしまい、遠回りだ。  かといって、歩いて帰るには、微妙に距離があるし暗すぎる。なにしろ、このバス通りでさえ人も車も見えない。耳を突く静けさが不安を掻き立てた。  気を紛らわそうと、イヤホンを耳にあてた、その時だった。  ――ここにおったか。  肌が一斉に粟立つ。あの声だ。  ――どくみはわれらがいたします。  顔をあげても誰もいない。それなのに、足が震えて動けない。  ――おおかた様には精のつく。  通りの向こうに灯りが見えた。バスのヘッドライトに違いない。  お願い。早く来て。ぎゅっと拳を握り、願いを込める。 「心の臓をば、差し上げよう」  早く来て、との願いは確かに通じた。  しかし、やって来たのはバスではなかった。  ごろりごろりと、私の背よりも大きい生首が二つ、転がってきたのだ。 「これは上玉。おおかた様もさぞかしお慶びになられよう」 「やれ、早速どくみをせねば」  黄色く光る目玉に照らされ、意識が揺れる。  かぱりと開いた大きな口に、びっしり並んだ茶色い歯。  どくみ。どくみ。ああ、毒見のことか。私が、食べられてしまうのか。  自由のきかない身体は、目を瞑ってもくれない。勝手にこぼれる涙だけが、冷えた身体に熱を伝える。 「あ、いたいた。焦りすぎだよさつきちゃん、財布落として……ってあれれ?」  全く空気を読まずに割り込んできたのは、先の軽薄そうな男、カガリだった。 「うわ。そちらさんの口、くっさいね。ちゃんと歯磨いてる?」  必死の思いで振り返った私には目もくれず、カガリは鼻をつまんでのんびり寝癖をいじっていた。
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