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それでもあたしは彼と口を聞きたくて、そして少しでも自分を可愛らしく見せるために、小首を傾げて小さく笑い、言った。
「薔薇が咲いた夢。真っ赤な薔薇が。ねぇ、昔にそんな歌があったわよね? 寂しかった僕の庭に薔薇が咲いたって」
「……あったかもね」
どんな夢、と惰性で訊いてきたよりは、幾分色の混ざった声で彼はあたしに相槌をくれた。でも一向に愛想のないその態度は、あたしをムッとさせるには充分だった。
「あったのよ。そういう歌が。お父さんだって好きだったのよ。子供だったらそれくらい、知ってるもんでしょ?」
口に出してしまってから、一瞬で後悔した。けれども一度口から出た言葉は、いえ、誰かの耳に入ってしまった言葉は、消し去ることも取り戻すことも出来ないのだ。時間を巻き戻せないように。人生をやり直すことが出来ないように。
いたたまれなくなった沈黙を破ったのは彼の行動だった。エプロンを脱ぎ、カウンターから出てくる。そのままあたしには目もくれず、破ったはずの沈黙を引き連れて店を出て行こうとする彼。あたしはすかさず声を発した。
「どこへ行くの」
「見舞い」
「あたしは行きたくなんてない」
「じゃあなんで薔薇は咲いたんだ」
「わからないの?」
「わらかないね」
無機質な声のやり取りは、今年で何年目になるのだろう。去年の彼も、その前の年の彼も、この後、あたしから薔薇の花を奪い、お父さんの病室に置き去りにしてくれた。
あたしはあんなところで忘れられた、壁の花になどなりたくないのに。
「……嘘。順はわかってない振りをしているだけ。わかってるのにわかりたくないだけ。そんなのひどい。あたしのこと、嫌いになっちゃったの?」
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