2

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ

2

ドアノブに触れて音をたてないように。呼吸音が漏れてしまわないように。 私はいつも細心の注意を払って覗き穴から彼の姿を眺める。 なんて素敵なお顔。火曜日と金曜日にだけ聞くことのできる彼の声が、脳内で再生される。私の脳の中の彼は、いつも甘い声で囁いてくれる。待っていたよ、と。 ほんの二秒ほどの間で、彼の姿は消えてしまった。覗き穴から目を離し、私はため息をつく。見下ろした右手は、既に汗でじっとりと濡れている。 深呼吸をひとつ。それからドアノブに手をかけ、ドアを開ける。一歩踏み出した向こうの奥の方に、彼の後頭部を認める。鼓動が高まる。高まる、高まる。 駆け出したくなるのを抑えて、階段を下りる。何でもない日常を装って。右手には小さなビニール袋、左手にはハンカチ。香水は既にふっている。 大きめのごみ袋を置き場に入れる彼の背中。今すぐにでも抱きつきたい欲望を抑えて、私はすまし顔で言った。 「おはようございます。今日も暑いですね」 「あ、おはようございます。ねえ、ほんとに」 ワイシャツの袖で額の汗を拭う彼。そんな動作にすら恍惚感を感じてしまうのに、私は冷静な表情を保つ。左手のハンカチで、彼と同じように額の汗を拭った。 じゃ、と去っていく彼。なんて幸せな一時だろう。小さくなっていく彼の背中が完全に見えなくなるまで、私は階段に留まっていた。 ふと、ハンカチに違和感を感じた。赤いものが染みている。 私は取り乱した。さっき額を拭ったときに、彼に見られはしなかっただろうか。不潔な女だと思われはしなかっただろうか。 泣きたい気持ちを抑えながら、階段を上る。 今日は気を付けてお掃除しなきゃ。彼はきっと清潔好きなのだから。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!