1.彼女

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 榛人が初めて最後尾の車両の彼女に手を振った時、彼女がそれを見たのは確かな様だったが、走行中の電車が踏切を通過するわずかな間の事だったせいか、彼女はこれといった反応は示さなかった。  その次の日も、その車両が踏切を通った時、彼女は車窓の方に目を向けていたので、榛人は手を振ってみたが、反応は前日と同じだった。  それが、三日目に榛人が同じことをすると、彼女は車内を見回した。どうやら誰か他の人間に手を振っているものだと思っているようだった。榛人は、聞こえるはずもないのに、「君だよっ」と踏切でつっこみ、隣にいた同じく踏切が開くのを待つ人に不審がられた。  その次の日も、彼女が前の日と同じような反応をしたので、榛人は手を振った後、ちょっと失礼かなと思いつつ、彼女を指差した。榛人の手振りを見た彼女は、「わたし?」と自らを指差し、驚いている様子を見せたまま電車に運ばれていった。  そうして、次の日からは彼女の方も、榛人に手を振り返すようになった。  その後、彼女の元気が無いという印象はすっかり変わった。  榛人と手を振り合うようになってから、彼女は車窓の外を楽しそうに見るようになり、榛人が彼女に感じていた生気の無さは一掃された。  それでも、梅雨に入り雨のせいで榛人がバス通学に切り替えた日などは、彼女はまたあの憂鬱な顔にもどっているのかもしれないと、榛人は考えないでもなかった。    梅雨が明けて、また頻繁に挨拶を交わすようになったある日、車内の彼女は手を振るのではなく、握りこぶしを二回振ってからピースサインを榛人に向けた。それがじゃんけんの仕草で、彼女が出したのはピースサインでなく「チョキ」であったことを、彼女が過ぎ去る直前に榛人は気付いた。手を振っていた榛人は「パー」であったがために、負けてしまったのだ。  次の日からは、榛人も彼女のじゃんけんに受けて立った。ある朝などは、じゃんけんに勝った彼女の方が「あっち向いてホイ」の身振りをしたが、二人の間にはそれが成立するほどの時間はなかった。  挨拶が何故かじゃんけん勝負に変わってからしばらくして、夏休みに入った。朝の通学時に会っていた彼女とは、当然、顔を合わせなくなった。夏休み中、榛人は殆ど彼女の事を忘れていたが、それでも、用事があって踏切を渡る時には必ず彼女のことを思い出し、通り過ぎる電車にその姿はないかと探した。
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