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真夜中のトイレ
夏の暑さも和らいだ、空気の心地よい季節。宵の明星に追い掛けられながら、いつものジョギングで汗を流す。響子は今夜も無理なくメニューをこなし、そのまま走りながら帰路についた。
マンションの自室に戻ると、照明はすべて消した筈なのに、トイレのドアの下から光が漏れていた。
「きっと、消し忘れたんだろう……」
自分のドジさ加減に呆れながら、響子はパチッとスイッチを切った。
「うわっ」
それと同時に、不意にトイレの中から男性と思しき声が聞こえた。同居人のいない独り暮らしの響子に、戦慄が走った。彼女は以前に聞いたことがある、天袋に住むという寄生虫の様な人間の話を思い出した。それは他人の家に勝手に上がり込んでは衣食住を拝借し、家主が不在の際にはトイレやシャワーすら使用するという、奇妙な生活を送る人間がいたらしい話のことだ。
響子は玄関に置いてあった傘を武器代わりに手にし、もう一度トイレの照明のスイッチを入れ、そっとドアを開けて見た。
「やあ、こんばんは」
便座に腰を掛けた男性は、読書を中断して笑顔で応えた。
「いや、何してるんですか? ここ、私の部屋ですよ」
彼女は警戒し、相手を刺激しない程度の語気で言ってみた。
「え、そうですか? フロアを間違えたんじゃないですか?」
男は憎らしいほど平然としながら、いたずらな表情で明らかな嘘を口にした。
「フロアは間違えないし、そもそも自分の鍵で入りました!」
恐怖より怒りが勝った響子は、手にしたお気に入りの傘を確認した。
「この傘も、私の物よ!」
憤りをぶつけるかのように、彼女は自分のパーソナルスペースの死守に努めた。この男も寄生虫のように居座るつもりなのかと考えながら観察していると、男の手元には見覚えのある本があった。
「あっ、その本。それも、私のお気に入りですよ!」
「あぁ、そうなんだ。僕もだよ。趣味が合うね。うふふっ」
男はまた、奇妙に嗤う。
「そういう意味じゃなく、……私の本ですよね?」
男の異様な受け答えに、段々と恐怖心が募ってきた。
「仮にそうだとして、ここから始まるロマンスなんてないかな?」
不法侵入者は響子が思いもよらないことを、唐突にぬけぬけと言ってのけた。
「ロマンス? いや、無い」
間髪入れずに、響子は即答した。
「そうか……」
そう呟く男の憂いを帯びたその面持ちは、何となく知っている気がした。
僅かな沈黙のあと、男は顎を上げ響子を見据えながら消え入るような声で最後に呟いた。
「さよなら」
男はそれだけ言うと、霧が晴れるようにその場から姿を消した。彼女は幻かと自分の目を疑ったが、床に落ちた本の無事を確かめるためにすぐに拾い上げた。その刹那、部屋の奥で何かがパタリと音を立てて倒れる音を耳にした。
トイレの照明を消し、傘を玄関に置くと、響子はすぐに人の気配の無い部屋に確かめに行った。そして、音の主が何かすぐに悟った。壁に掛けてあったフォトフレームが床に落下し、写真を伏せるように倒れていたのだ。その額には、二年前に亡くなった彼氏と響子のツーショット写真が飾られていた。
「……まさか」
不意に、響子の頬に一筋の涙が伝う。
そして真夜中のワンルームには、静寂だけが取り残されていた。
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