ネットカフェのゆび

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 Tさん(女性・都内在住)が、学生時代の話だ。  当時、Tさんはあるアイドルグループの熱烈なファンーーいわゆる「追っかけ」をやっていて、ライブツアーの全日程に通うために全国を飛び回っていた。  けれど、アルバイトしかできない学生には、活動資金に限りがある。  当然、Tさんは節約を心がけた。 「でも、グッズ代とチケット代だけは死んでも削れなかったんですよね」とTさんは笑った。  真っ先に削ったのは交通費と宿泊費。最安値の夜行バスを活用し、泊まるところをーー二十四時間営業のネットカフェにした。  ここで、Tさんの顔が曇った。  あるネットカフェで、Tさんは不思議な体験をしたという。  ライブが終わると、うだるような夏の熱気が立ちこめる夜の街を歩いて、そのネットカフェにたどり着いた。  あらかじめ調べていたそこは、古いけれど清潔で、Tさんはホッとした。安いネットカフェには、汚かったり臭かったりと環境が劣悪なのも珍しくないからだ。  愛想のよい女性店員に応対され、Tさんはフラットシートを選んだ。  冷房で汗が引くのを感じながら、半畳分の狭い個室に入る。合皮のマットレスが敷かれ、正面にはやや旧型のパソコン。読書灯をつけ、グッズでパンパンになった重いトートバッグを下ろし、Tさんは一息ついた。  顔を上げ、左右に視線をめぐらす。  ネットカフェの個室の仕切りは低い。隣室や通路にいる人間が背伸びをしたら、容易に覗き込めるくらいに。  防犯面では心許ないが、安値には敵わない――翌日もライブを控えたTさんは、早く寝ようと思った。  別料金のシャワーで汗を流し、寝支度をして、Tさんは薄いブランケットにくるまり、横向きになって目を閉じた。  冷房が少し効きすぎて肌寒い。 (静かだなぁ……)  何度も泊まって、Tさんはネットカフェが意外と静かな場所だということを知っていた。  客たちは皆、息を潜めるように存在している。  それでも時折、カタカタカタッとキーボードを叩く音、サッサッサッと摺り足で歩く音、コンコンと軽く咳き込む音、カサッ……と雑誌か漫画本かのページをめくる音が、どこからともなく聞こえてくる。  だが今この時、Tさんの耳に、物音も吐息もひとつも届いてこない。  無音だった。
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