夏精霊(しょうりょう)

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 そのころを懐かしむみたいに語る穏やかな表情が、静かな声音が、今の浅田の心の平穏をそのまま表していた。その心に、かつてのように荒ぶる強い波風が立つことは、おそらくもうないのだろう。  ただ、今、この目の前にあるような小さな波の寄せ引きは、これからも常に消えることなく、彼の心のなかで繰り返されていくのだろうけれど。  ──彼の熱は、ここにあったのだ。  どこへ行くことも、消えることもなく、ただ確かにそこにある。  そんな熱もあるのだ。 「……終わりみたいだな」  と、浅田がつぶやいて、広稀と絡めた指先とは反対側の指に挟んだ煙草を見つめる。そこでは、かすかに残っていたひかりが、今まさに燃え尽きようとしていた。  ごく小さくなったそれを口許へ持っていくと、浅田はその火種が指に触れる間際まで深く一煙を吸い込んだ。最後の灰が、彼の足もとを、季節はずれの雪片のようにひらりと掠めてから舞い落ちた。  それを合図にしたかのように、浅田の指先がそっと広稀から離れる。同時に、手に握られていたままでいた線香花火の残骸を抜き取ると、広稀に背を向けて、先程つくった簡易バケツのなかに煙草の吸い殻と一緒に投げ入れた。じゅっという炎が絶える小さな音が、鼓膜に触れたかと思う間もなく消えていく。  浅田の頭上を、彼が吐き出した紫煙がゆっくりと上っていく。まだ彼の感触が残る指先をもう一方の手で包み込みながら、広稀はそこに、確かに過ぎゆく夏の名残を見ていた。  ──夏が行く。  海に還っていく。
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