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夜の夢を憶えているのは、現実の中に居場所がないからだろうとキシはよく言っていた。
「お前の場合は」と付け加えることもあった。キシと話す時、彼がお前、と言うのを僕は心待ちにしていた。
「僕の場合は、デスカね」
「誰でも夢はみるっていうじゃない。毎晩みるって。お前の場合は、毎晩夢みて憶えてるとこがポイントじゃないの」
キシは薄い色のビールを飲み干して、グラスをコースターに置いた。どーする、もう一杯飲む?と僕は言う。
「どしよっかな」
店は満員で、カウンターに並んで座っていた。キシが僕を見て、
「今日、うち来る?」
と言った後、にっこり口元で笑った。無邪気さを装った風に。
「んー」
と反射的に考えている声を出した。
「明日土曜だし」と続けてキシが言う。
「んー」
「ごはん、後でなんか作るよ」
僕を見たまま、キシはさらに続けてそう言うのだが、その時の目はもう欲望で重く、白い光を放っている。例の熱い塊を、突然体の奥に埋め込まれたと思う。
「うん」
「じゃ、アナタが飲み終わったら行きましょう」
もう一度にっこり笑って、キシは正面を向いた。
僕は自分のグラスを手に取った。お前はコレクションしているが、アナタもコレクションしておこう。
キシの黒縁のめがねの奥の目は、いつも何か考えているように見えるが、誘う時は獰猛な感じが加わって、次は断ってみるのも手だ、と僕がその頃いつも自分に言い聞かせていた決意を挫くことになった。
地下鉄に乗る。僕はナイロンの手提げ鞄を提げて、片手でつり革につかまっていた。キシは斜めがけの大きなショルダーバッグで、両手でつり革を掴んでいる。
「PC持って帰ってる?」
「一応ね」
とキシは左手で重そうなショルダーバックの肩紐の位置を直し、またつり革に手を戻す。
「キシさんの部署ではそういう決まりとかあんの」
「ある、置いてく時はロッカーに入れて施錠して、ロッカー空いてなかったらチェーンみたいなのつけて、面倒だから」
「やっぱ厳しいんだ」
「ん、持ち歩く方が簡単。業務ってパソコンは?あ、デスクトップか」
「そう」
キシは営業企画部で、僕は業務部にいた。同期だが、彼は二つ年上だ。初めて会った日、僕はキシの顔から目が離せなくなった。正面から見た鼻から唇までと、横から見た唇から首へ続くライン。
感じが良くて話しやすくて、それでいて静かな人だった。
同期は、男女問わず皆キシと話したがったので、僕はいつも少し離れて、彼の顔を見ていた。顔を見ると熱くなった。
地下鉄の窓に向けたその横顔を見ると、やはり最初に見た時と同じように目が離せない気がした。
4階でエレベーターを降りると、キシはズボンの後ろのポケットに右手を突っ込んで、キーホルダーを出した。小さな靴べら型で、柔らかそうな茶色い革製だった。
鍵を開けると、
「はい」
と言ってキシはドアを開け、僕を先に玄関に入れた。お邪魔します、と口の中で言いながら入る。ドアが閉まり、突然持っていた鞄の重みがなくなった。肩を掴まれて、背中を壁に押し付けられた。キシは少しかがんで僕の鞄を下に置くと、唇を重ねてきた。
押し付ける力が強いのに、キシの乾いた唇はわずかに開いて、優しく僕の唇を包んでいた。思わず、背中に手を回して抱きついた。舌を押し入れると、しばらくして彼はふと唇を離してしまう。
奥に続く部屋のカーテンの隙間から、微かに夜の町の光が漏れている。キシが素早くショルダーバッグを頭から抜き取って、玄関を上がったところに落とした。ドンッと音がしたので、
「パソコン!」
と言うと、キシは僕をちらっと見て、もう一度壁に押し付けた。
「いてえ」
と言ったがそれにもキシは答えず、今度は深く口づけてくる。次に唇を離した時、
「ここでしていい?」
とキシが言った。腰に回されていた手がベルトを外し始めた。
「ちょっと」
「何?」
「シャワー」
「浴びたい?」
ズボンのファスナーが一気に下ろされた。
「ちょっと…」
もう一度、壁に押し付けられた。
「痛いって」
キシは僕のネクタイの結び目を両手でぐっと引っ張り、衣擦れの音を立ててあっという間に引き抜くと、ショルダーバッグがあるあたりに投げ捨ててから、
「痛いの好きでしょ」
と言った。
痛いの好きとかないから、と思ったが、そう言われると、いつもどうしようもなく気持ちが高ぶった。キシはセックスの時は饒舌だった。痛いの好きなんだね、と最初に寝た時、キシが決めつけただけなのだ。
彼は僕のシャツのボタンを片手で一つ外し、首筋にそっと歯を立てた。
「あ、だめ」
「痛くする?」
ズボンの中に手が入り込み、下着の上から掴まれた。同時に首元にゆっくりと歯が食い込んできた。
ほとんど叫び声のように、ああっと声が出て、膝の力が抜ける。キシは僕を押さえつけて、下着の中に手を入れ、ゆっくりと続けていた。
「こっち見て」
目をやっと開けると、黒縁のめがねの奥で、あの目が重く白く光っていた。
「俺のも。触って」
右手をキシの股間に伸ばして、ズボンの上から掴む。
「ああ」
と激しい吐息を漏らして、彼は一瞬顔をのけぞらせ、その後激しく唇を合わせてくる。
キスをしながら、お互いに手を動かしていると、急激に最後が近づいてきた。
「もう、いく」
唇を合わせたまま声を絞り出す。キシは無言で、僕の好きな触り方に切り替えた。
「あ、あ、あっ」
また大きな声が出て、体が動いてしまう。キシは僕のうなじを掴んで耳元に歯を立てながら、
「いって」
と呟いた。
下着とキシの手の中に射精している間、荒い息遣いが耳元で聞こえていた。長い間、震えが止まらなかった。
僕が震えるのを押さえ込んでいた後、キシはふと力を緩めて、
「気持ちよかった?」
と言って、僕の顔を覗き込んだ。僕は答えられなかった。
「シャワー浴びなよ」
「…キシさんは?いってない」
「あとで」
キシは僕の下着の中から手を抜いて、
「よっこら」
と言いながら靴を脱ぎ散らかし、明かりをつけずにすぐ左の洗面所に入っていった。
僕は上がり框に座り込んだ。手を洗っているキシの立てる水音を聞きながら、壁に頭をもたせて目を閉じた。
水音が止み、一拍おいて出てきた気配がして、
「お」
とキシが言う。
「大丈夫?」
「キシさんが先にシャワー浴びな」
「いいの?」
「動けん」
「大丈夫?」
「大丈夫」
実際は大丈夫ではなく、キシが好きすぎた。そのまましばらく、壁越しにシャワーの水音を聞いていた。「気持ちよかった?」というあっさりした口調が、何となく心を重くさせているのだった。
気分を切り替えて、ズボンが汚れないように気をつけて立ち上がる。玄関脇にあるスイッチを押して電気をつけ、自分とキシのバッグを部屋に運び込んだ。ネクタイを拾ってきて鞄にしまって、ぼんやりと部屋に立っている。
そのうちキシが出てきて、
「どうした、たちずさんで」
と言った。
僕はキシを見たが、特に何も言うことが見当たらなかった。
そこで泣くこともできるくらい、その時はキシが好きでたまらなかった。いつか好きだと言ってみるか、言わない方がいいのか、と考えていた。
「シャワーどうぞ。下着は洗濯物のとこ入れとけば」
「うん」
僕は洗面所のドアを入って、シャワーを浴びた。この夜の話はまた書くかもしれない。
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