1 花の名前を

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俺はべたつく汗を、喫茶店のクーラーで冷やしていた。新しい彼女との三回目のデートだ。遅れまいと少し早足で来たのだが、そのせいで彼女に「あせくさーい」とかいわれたらどうしようかな。大学もバイトもない平日の昼下がり。 アイスコーヒーを五分の四まで飲み干して、ドリンクバーにすりゃよかったな……と俺は悔やみ始めた。その時、入り口の茶色の扉がすっと開いた。 「おまたせー」 ふわりとした袖の、美奈が笑顔で近づいてくる。唇がつややかなピンクで色っぽい、とほめるてもいいのだろうか。まだキスもしていないのだ。俺は曖昧な笑みを浮かべた。 「この店のコーヒーおいしいよ」 「わあ、そうなの」 美奈は薄茶色の髪をゆらして笑う。しかし、彼女はドリンクバーで白いカップに、紅茶を入れてきた。 暖かな湯気とともに立ち上る、冷たい香り。 「それ、ハッカ入っている? 」 「え? ああ、ペパーミントよ。さわやかで好きなの」 「うん。夏は涼しそうなのがいいよ。そういえば、恋人には、花の名を一つ教えようって話がなかったかな」 「うんうん、あったね。花は毎年必ず咲くから、その女性のことを思い出すって。何か、花の名前を教えてくれるの? 」 俺は虚を突かれた。朝顔、といいそうになり、それは小学一年生でも知っていると思い直した。 「夕顔っていうのは、知ってるかな」 「うん……」 美奈ははっきりしない。俺はスマホで検索した。 「あら、白くてきれいな花ね」 やはり、知らなかったらしい。美奈は小さな液晶画面をしげしげとのぞき込んだ。 「実家の周辺の畑に、夏になるとよく咲いていたんだ。子供時代の思い出でね」 夕暮れの緑濃い畑に白い花が並ぶ光景は、セミの鳴き声と結びついた記憶だった。 「わかった。この花を見たら、田崎くんのことを思い出すよ」 「ほんと? うれしいな」 俺の声は、はずんだ。これで別れても毎年……いやいや、縁起でもない。美奈とのデートは順調だ。俺はアイスコーヒーのおかわりを頼んだ。 そして、美奈の手元のカップに再び目をやって、冷たいアイスコーヒーのグラスをクッとにぎった。 どうしても思い出してしまう。 ハッカについて教えてくれた、前の彼女のことを。 アイスコーヒーは、ひときわ苦く感じられた。
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