熱虫症

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敷きっ放しの万年床から転がった、へたれた枕、その上に鎮座した小さなリモコン。 朝起きてそれを使った事を思い出したが、今はそれどころじゃない。 なにしろそのリモコンの傍らには、ヤツがいたのだから。 ヤツとは… 黒く脂ぎった体、太い毛の生えた足、長い触覚をユラユラさせて、彼の事を吟味しているよう。 そう、言わずと知れたゴキブリである。 その小さな昆虫を前にして狼狽える様は、大の大人の彼にしても同じであった。 さんざ、この部屋の温度に不快さを覚えていたにもかかわらず、それを超える負の感情が彼に芽生えていた。 『不気味で薄汚いグロテスクなヤツ』 『オレの部屋に勝手に入りやがって』 『その存在が腹立たしい』 純粋な敵意。 それと、圧倒的な殺意が込み上げる。 だが、その感情とは裏腹に、彼の視線、1メートルを挟んで睨み付けるも、身動きは取れない現状があった。 それは、ヤツのいる場所である。枕の上。 手の届く位置には丁度読み終えた漫画雑誌がある。 しかし、よしんば雑誌で潰せば、枕が汚れる。下手れた枕だとしてもそれは嫌だ。 だからと言って、素手で捕らえる、なんて事はできない。 ここぞと役立つ殺虫剤は、キッチンにあるにはあるが… 両者、全く身動きできない状態に陥っていた。 晃の額から、大粒の汗が頬を滴る。 生唾を一つ飲み込んだ後、決心した。 視線を外さずに、ゆっくりと後退りを始めた。 なんとかキッチンの殺虫剤を取りにいく事に決めたのだ。 ヤツを睨んだまま殺虫剤を手に入れられれば… ちょっとの隙で逃げられるのは避けたい、この部屋に隠れていると思うだけで、気になって寝られない。 だからと言って、このままではらちがあかない。 晃は、敵に悟られぬよう、細心の注意を払って、逃げるな、動くなと、唱えながら、ゆっくり一歩、また一歩と後退して行った。 ヤツもまた、晃の動向を探るかのように、触覚だけを奇妙に動かしていた。
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