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船を降りた時、今まで起きたことの全てが都合のいい夢だったんじゃないか、って、思わずにはいられなかった。俺の逃避行はここで終わった。
波が打ち付けられる音がした。静かな音だった。
あいつがいたって思い出を俺はなにも持って帰らなかったなあ。
街の方を振り返ったら、数ヶ月前と少しも変わらない喧噪と汚物にまみれた灰色の都市がそこにあった。べつになにも感じはしない。
ふと香りを思い出す。
ジャスミンのハーブティー、ぶどうのジュース、チョコレートのロールケーキ……甘酸っぱい苺の香り。潮風に消えてった。
忘れなければ思い出にならない。ずっと終わらない、って、お前言ったよな。
そうであればいい。きっと。
歩きながら空を見上げたら、雲の向こうに果てしない青が広がってる。鏡で見たけどやっぱり俺の髪も瞳も青くはない。俺の目にはそうは見えない。でもいいか。あいつが言うならきっと俺は青い。
誰かが綺麗って言えば俺は綺麗だし、素敵って言えば俺は素敵になる。クソ野郎にもなる。だからきっと青くもなれる。
だけど……気持ち悪い、って心の底から言われたのは初めてだったな。
あいつ怒ってるかな……泣いてるかな。どうしても言えなかった。
ごめんな。
事務所の扉をを開けたら、デスクの島の一番奥に座っていた父の目を見開いて立ち上がった。
「フミくん!」
一番近場にいた女のスタッフが俺を見るなり泣き始める。俺は大丈夫ですか、ご心配おかけしました、ってさわやかな笑顔で言う。
流れで父の前までやって来た。胸ぐらを掴まれた。顔には絶対手を出さない。
「文雪……一体どういうつもりだ」
「少し休暇が欲しかった」
「何も言わないで出て行くのはおかしいと思わなかったのか」
「言ったら許してくれないと考えた」
「仕事も学業も怠るなと言ったはずだ」
「だから仕事の切れ目に行った。高校だってもう受験に向けてほぼ自習だ。出席日数も足りてる。問題はないはず。だから行った。叔父さんだって体調が悪かった。親父がしてほしいように俺はしている」
納得がいかない、というような顔だったけど、親父は渋々手を離す。
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