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 帰りの電車の中で見たネットニュースで〝観測史上初の最高気温を観測〟との文字が流れていた。  なるほど。暑いはずだ。  駅から徒歩八分、家までの距離を我慢できず、道中の自動販売機で清涼飲料水を買う。冷たい汗を全身にかいた一本の缶は、ほてる体を慰めてはくれなく、家に到着する頃にはぬるくなっていた。  家は、蒸し風呂のように、逃げ場のない熱を溜め込んでいる。何をしていなくても滲み出る汗が、玉のようになって首筋を流れていく。その様が、今夜は熱帯夜であると確りと伝えていた。 「あ、来てたんだ」  居間の電気を点けると、続きの仏間に、仏壇の前に胡座をかいている人影が見えた。気の無い言葉とは裏腹、本当は居ることを期待していたし、居るだろうとの予想に堅くもあった。  仏壇から目を離してこちらに振り向いた彼は、一年ぶりに見る懐かしい顔を見せてくれる。  従兄弟だった。十七歳。夏仕様の制服がよく似合う、少年と青年の境目。まだあどけなさの残る眼差しと面差しが、屈託のない笑みを象る。 「ただいま」 「おかえり」  私は彼に微笑みを返し、仏前の蝋燭に火を灯すと台所へと引っ込んだ。冷蔵庫を開けると、冷気が心地良くほおを撫でる。冷やしてある麦茶をコップに注ぎ、勢い良く飲み干した。  仏壇には、私の両親と、彼の両親と弟の写真が飾られている。  彼に、弟が生まれた時のことだった。  私の父にとっての兄である彼の父親に、出産祝いのために両親は会いに行ったのだ。その先で大地震に見舞われ、私の両親、彼の両親、そして生まれたばかりの彼の弟は亡くなった。  自室で着古したハーフパンツと、タンクトップに着替える。居間に戻ると、彼が「げ、まだ着てたのかよ、それ」と顔を顰めた。だが、満更でもない。これは、彼が中学校時代、体操着として履いていたハーフパンツで、サイズアウトしてから私が貰い受けたのだ。  再び台所へと立つ。冷蔵庫の中には麦茶の他に、前日の内に作り置きしておいたタッパーがたくさん積まれている。  カボチャの煮っころがし。豚の角煮。茄子と獅子唐の煮浸し。いんげんの胡麻和え。オクラの酢味噌漬け。  全て、彼の好きなものだった。  彼の母親の味でもある。私は努力して、彼の好む味付けを手につけたのだ。  居間のテーブルに温めなおした料理を並べると、二人で食卓を囲む。  テレビは今日一日の異常な暑さについて、頭の良い偉い人が考察を述べていた。居間の隅についたエアコンはフル回転で、冷たい風を室内に送り続けている。  コップにビールを注ぐ。彼の前にも、その金色の飲み物を置くと、渋々のように手に取った。彼がビールを飲むのは初めてのことではない。だけど、まだ慣れないようだった。 「かんぱい」  高級なグラスではない。麦茶やアイスコーヒーを飲む時にも使う、安っぽいガラスのコップは、その値に見合う雑な音を聞かせる。 「どう? 仕事」  カボチャをつつきながら、彼が言った。 「去年、嫌な上司が居るとか言ってたじゃん」  私は去年、高校を卒業してから勤めていた会社を辞めた。転職に悩んでいた時、相談し、話を聞いてもらったのは彼だった。それが一昨年のこと。そして去年、転職先で出くわした馬の合わない上司のことを、私は彼に愚痴っている。 「あ~もうアレはダメだね。仲良くしようと思うから尚更ダメなんだわ。でも同じ会社だから、出来るだけ良い人間関係を築きたいって思うじゃん。それがダメ、無理だったんだね。別にどうでもいい、上辺だけって思って付き合ってると、嫌味も受け流せるし今のところなんとか上手くいってる気がする」 「大人、って感じ」  苦笑いがこぼれた。それに私は箸を止める。  大人か。確かに、私はもう大人だ。  オフィスカジュアルが何だか分からなかった昔とは違い、一端のOLとして勤め始めて幾年か。  社会人としての挫折も味わい、上下左右の人間関係に揉まれてすいも甘いも経験し、すっかり〝大人〟なのである。  自らではまだまだ若いつもりでいるが、毎年入ってくる新入社員の初々しさ、年齢を聞くと、時の流れというものの無情さを知る。私が十八歳の頃、今の私の年齢は「立派な大人」であった。 「ところでさあ、結婚とかしないの?」  思わぬ質問に顔を上げると、彼は悪戯っ子の表情をしていた。 「そういや浮いた話って聞いたことないけど、もう二十九でしょ? 三十路じゃん」  私は顔を真っ赤にして眉間に皺を寄せる。  近頃の悩みは、年齢の出はじめた肌の不調と、体力と気力の衰え、そして過ぎつつある婚期だった。  世間は晩婚化が進んでいると騒いではいるが、周りの友人たちからは結婚ラッシュは落ち着き、出産ラッシュも通り過ぎ、小学校に入学した、PTAの活動が面倒臭いだのと、家庭じみた話しか聞こえてこない。焦りがないと言えば嘘になる。だが、このままでもいいと思っている。複雑な心境で、目下悩みの種だった。 「人が気にしてることをズケズケと……誰かいい人紹介してよ」  彼から目をそらすように、私はビールを煽った。喉元を通っていったビールは、エアコンがきいているといっても温くなるのが早く、苦さを濃く感じさせた。 *  蝉の声がしている。  寝坊だ! と思った。慌てて覚醒した頭で、頭上に居る人の姿を認知する。彼だ。彼の姿を認めた瞬間、緊張した体が弛緩して再び布団に沈んだ。  彼が居るということは、休みだ。  盆休みの真っ最中だった。 「寝すぎだ。もう昼過ぎだぞ」  もう一度、眠りに就こうと手探りにタオルケットの在り処を辿ったが、生憎なことに彼の手中に掴まれている。アレだ、布団を剥がされた形だ。仕方なく閉じた瞼を上げると、鈍い痛みが頭を苛んだ。 「飲みすぎなんだよ」  呆れた声がする。盆休みに入ってからは、毎晩酒盛りに興じていた。同じように飲んでいるはずなのに、アルコールに慣れていないふりをして彼は強い。父もそうだった。私の父と兄弟の父の血を引いたのだろう。私は下戸の母似である。 「今日はスイカを食べるんだろ? 切っとくから顔洗ってこいよ」 「……なんかそれ、ケンカ売られてるみたい」  布団に寝そべったままに言うと、彼は「ばーか」と笑って部屋を出ていった。  日の光に暖められた畳の匂いがする。もそもそと痛む頭を叱咤して起き上がると、私は薄いカーテンを開けた。  青空が広がる。白い入道雲。  今日もコントラストが眩しい夏だった。  冷たい水で顔を洗うと、頭痛も幾分かはマシになったような気がする。それでも重たい足取りで、居間に出ると縁側に彼の姿はあった。横には切られたスイカと、コップに入った麦茶が置いてある。 「夏らしくてステキ」  思わず呟た声に誘われて、振り向いた彼はスイカを頬張っていた。  スイカを挟んで隣に座り、私も赤くみずみずしい果実を口に含む。優しい甘味と、口内を満たす溢れんばかりの果汁に舌鼓を打ち、夏の暑さを和らげる。  狭い庭には、一般の桜の木が立っていた。春には薄紅色の花を満開に見せてくれる木は、深緑を風にざわめかせていて、耳に涼しさを聞かせてくれる。  桜の木の下に、数本の向日葵が咲いていた。  小学生の頃、泣いて強請って、両親を困らせたものがある。ハムスターだった。その時に飼ってもらったハムスターの餌である向日葵の種を、私が庭に埋めたのだ。  埋めたきり、特に世話をしていたわけではなかったが、毎年、夏になると元気な黄色い顔を見させてくれていた。あの時のハムスターは、向日葵の近くで眠っている。 「昔さあ、こうやってればスイカもできるんじゃないかなーって期待してた」  スイカの種を庭に飛ばしながら、私は呟いた。隣で聞いていた彼がスイカを咀嚼し、麦茶へと手を伸ばす。 「俺も思ってた。スイカが出来たらもっと食べれるのにって」 「そうそう。昔はさー、あんまり食べさせてもらえなくて。お腹が緩くなるとか冷えるとか言われてさ」 「こんなに食べても別に冷えないよな」 「ほんとほんと」  子供の頃は、スイカに限らず、おやつは決まった量しか貰うことができなかった。何かにかけて、それなりの理由を母や父は付けていたが、おやつで腹が膨れ、ご飯が食べられなくなることを心配したのだろう。  大人になったら思う存分、夏にはスイカを食べてやると思っていた。半分に切ったスイカを、スプーンですくって食べるのが夢だった時期もある。  そのことを話すと、彼も同じようなものだったらしい。子供が考えることは似通っている。二人で声を上げて笑う。 「今年もやるんだろ?」  最後の一つとなったスイカを食べ終えると、彼は感慨が深そうに言った。 「花火?」  思い当たることはそれしかなかった。毎年、彼と花火をしている。盆の最後の夜のことだ。  彼が頷いた雰囲気を隣に感じ取り、私は「もちろん」と答えを返した。  盆の最後は二人で花火をするのが、私たちのお決まりなのだ。  気付けば、蝉の声が変わっていた。けたたましく、生き急ぐような蝉の鳴き声から、哀愁を漂わせるひぐらしの声が聞こえていた。  思えば日が暮れるのも早くなってきたような気がする。夕刻を間近に控えた空は相変わらず青かったが、肌に夏の終わりを感じさせていた。 *  花火は盛り上がった。  スーパーの特設コーナーで買ってきた大袋は、たくさんの種類の花火が楽しめるものだ。  まず手持ち花火で興奮を高め、ねずみ花火を庭に放って、逃げ惑う。流石に、庭先では打ち上げ花火をあげることは出来なかったが、子供の頃に戻ったかのように、私も彼も笑って、次々と花火に火を点けていった。早々にねずみ花火はなくなった。 「好きなやつあったぞ」  赤や緑と言ったカラフルな花火よりも、まるで、そのままの火花を散らすかのような金色の花火が好きだった。  私のお気に入りの一本が、彼から手渡される。蝋燭から火を点けると、やがて細い棒の先から金色のシャワーが流れた。  対して彼は、男の子らしく派手な花火が好きだった。赤から緑と色が変わり、爆ぜかたも変わるような変わり種を好む。  それぞれが違う花火を持ちながら、キュウリと茄子の浅漬けと、冷やしトマトをつまみに、ビールを煽る。 「今年も終わっちゃうね」  私の言葉に一拍遅れて、持っていた花火が消えた。  隅に置いたバケツに放り投げると、じゅっと水が熱を飲み込む音が鳴る。何とも言えない、水分を含んだ火薬独特の臭いがした。続いて、彼が手に持っていた花火が消える。 「そうだな」  気付くと、袋の中には線香花火しか残ってはいなかった。どちらが先と言わず線香花火に手を伸ばすと、静かに火を点ける。  外に居るため、エアコンの風は届いてこなかった。夏の夜、今だ夜冷えを知らない蒸し暑さを全身に纏っている。  線香花火の弱い光に照らされた横顔は、じんわりと汗が滲む私とは違い、涼しげだった。 「俺さ」  前触れのない声は消え入りそうなもので、私は見つめていた線香花火から顔を上げた。ぱちぱちと耳に優しい音がする。彼は横顔だった。半分だけの(おもて)では、何を語ろうとしているのかが分からない。目も手元の線香花火を見ているままで、感情を悟らせてはくれなかった。 「もう来ないようにしようと思う」  感じていた、言いようのない不安の通りの言葉だった。だが、私は動じはしない。  大人になり嫌でも経験を積むと、分かりたくがなくても予想がついてしまう。彼の言葉は、私にとって予想通りであった。彼が、この言葉を伝えようとしたのは、今日が初めてではない。去年も、一昨日も。私は聞きたくがなくて、転職の相談や上司の愚痴を吐き出し、会話をそらしてきたのだ。 「なんで?」  私を見た彼は、困ったように笑った。 「お前、もう二十九だよ」 「うん、知ってる」 「このままじゃダメだろ」  静かに燃えていた線香花火が、勢いを増して燃え上がる。それでも他の花火と比べると、その火は遥かに小さくて、弱い。けれど、根強い人気があるように、線香花火の儚さは人を惹きつけて、魅了する。燻っていた火花が消えると、丸い玉になって線香花火は落ちた。 「このままでいいよ、全然」  投げやりに燃えカスをバケツに投げ、新しい線香花火に火を点ける。  彼は長い溜め息を吐いた。 「何がいいんだよ」 「じゃあ、逆に聞くけど、それでいいの?」  訴えるように強い眼差しで見返すと、彼は怯んだようだった。狼狽えて黒目を動かした後、迷いを捨てて、同じく強い眼差しで見つめてくる。 「だって、お前、生きてるんだよ」  彼は、私の初恋の人だった。  私よりも二歳年上の従兄弟のお兄さん。  出産祝いに行くと言った両親に、私も着いていきたかった。だが、中学三年生だった私は、彼と同じ高校に行くために受験勉強の真っ最中で、どうしても欠席のできない模試があったのだ。泣く泣く両親を見送った。  その先で、私を残し、両親と、彼の両親、弟、そして彼は死んだ。  どうして一緒に行かなかったのかと、強く、深く後悔をした。  模試なんて放り捨てて、無理矢理にでも着いていくべきだった。そうすれば、愛する両親と、大好きな彼と、一緒に逝けたはずなのである。  別れは、私が十五歳。  彼が十七歳の時だった。  再び、彼と会えたのは奇跡だった。  両親を亡くした私は、生まれ育った家を離れ、遠い親戚の元で暮らすことになった。高校を卒業後、就職先を生家の近くに決めて、一人で故郷に戻ってきた最初の夏。  盆の夜に家へと帰り着くと、彼が居たのである。  仏壇の前に胡座をかき、見知った十七歳の姿のままで。  それから毎年、夏の時期に逢瀬を重ねた。時を止めてしまった彼だけをそのままに、私だけは残酷にも時を刻みながら。  私は二十九。  十七歳の姿の彼も、本来ならば三十一歳なのだ。 「……私は、このままでいいの」  憮然としたまま、私は呟いた。  俯いた視界には線香花火ばかりで、彼の姿は見えなかったが、きっと困った顔をしているのだろう。会えば毎回、金魚の糞の如く着いて歩いていた幼い頃からそうだ。彼の困った顔はよく見ている。 「よくないよ。ずっと独り身でいるつもり?」  彼に、私の恋心を話したことはなかった。だが、あからさまな好意を持って、幼い頃から接してきたのである。知っていてもなんら不思議なことではなく、寧ろ当然のことだ。  彼が死んで何年も経った今でも、変わらずに恋心を抱いているとは、最初は思っていなかったようだが。  確かに私は大人になっていたが、心はあの時から止まったままなのだ。  大人としてどうでもいい部分ばかりが成長して、一番大事なところは止まっている。  周りの友達が結婚し、出産し、順調に人生のステージを上げていっているのを見て、焦りを生む時がある。  いつになっても彼を忘れることが出来ないのは、毎年の逢瀬が原因だろうとも、分かりきっていた。だが、私は、彼を断ち切る勇気を持ち合わせていない。  彼と一緒になることが出来なくても、この先ずっと一人で生きていくことになっても、短い盆の時期だけを心の頼りに生きてきたのである。 「私がいいって言ったらいいの。もう来ないなんて言わないで。来年も帰ってきて」  線香花火が落ちると、もう我慢ができなかった。  目に留められなくなった涙が、堰を切ったように流れ出す。泣き顔を見られたくがなくて、私は膝に顔を埋める。それも、彼は困ったように見ているのだろう、と思う。彼は優しい。昔から、何処にでも後ろから着いてくる私を、鬱陶しそうにする空気はあったが、拒絶はせず、最後は受け入れてくれるのだ。 「……俺だって辛いんだよ。置いていかれてるみたいだ」  先程までの強い語気ではなく、弱々しい声音だった。  生きている時も、死んでからも、長らく一緒に居たはずなのに、彼のそんな声は初めて聞いた。それがまた、私の涙を誘い、嗚咽を抑えきれなくさせる。 「お願いだから〝おかえり〟って言わせて」  彼からの返答はなかった。 「お願い」  私は彼が折れるのを待った。細長い吐息が聴こえて、衣擦れの音がする。鼻をすすりながら恐る恐る顔を上げると、差し出されていた左手は小指を立てていた。  いつかの子供のように、左手の小指に同じく小指を絡ませる。指切りげんまんだ。 「……破ったら、本当に針千本飲ませるから」 「……こわいなあ」 「……大丈夫よ、もう死んでるんだから」 「……でも、きっと痛いよ」  絡み合った指先から、体温は感じない。誰かの体温を感じた記憶が遠く、既に他人の温度とはどのようなものだったのか、思い出すことも出来なかった。加えて、夏の暑さが肌の感覚を鈍らせていて、彼に温もりがないのはさしての問題ではないと思える。 「約束だからね」  小指を離すと、彼の指先がほおに残った涙の跡をなぞった。  どうしようもなく、好きだと思った。  どうしようもなく、報われないとも思った。おそらく、お互いがそうであったと感じる。  だからこそ私は、彼に「私のこと好き?」なんて無粋なことは聞かなかった。これから先、私がどんどん歳を重ねておばさんになったら、いつかは聞くかも知れなかったが、今は聞く時ではないと思ったのだ。  瞬きをすると、次の瞬間には、彼の姿はなくなっていた。  縁側に置いた精霊馬を見る。みずみずしく太っていた茄子は、水分が抜けたように萎びれている。  帰ってしまったのかーーまた溢れてしまいそうになった涙を堪えて、私は一人で缶ビールを傾ける。残りの線香花火をどうしようかと考え、キュウリの浅漬けをほお張った。塩っけが胸にしみた。 「夏、終わっちゃったなあ……」  そうして私は、来年の夏が来るのを待ち望み、それまでの一日一日を、もどかしく消費する日々に戻っていくのだ。
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