look for a person.

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 ごほごほと、咳き込む音がする。扉を一枚隔てているというのに、その音はあまりに鮮明に、部屋の主の苦しみを伝えてきた。ここ数日、急に冷え込んで来たためだろう。しばらく落ち着いていたはずなのに、今日はまた一段と咳がつづいていた。  廊下にずらりと並んだ窓からは、薄暗い空が見える。その最も東の空に煌々と輝くのは、美しい銀色の月。どうやら今夜は満月のようだ。  ……こちらが満月ということは、表層界も同じはず。もしかしたら、今日かもしれないな。  思いながら、立ったまま背を預けていた扉に後頭部までを付ける。ごほごほと、苦しげな咳は今なお続いていた。 「……?」  ふと、聞こえて来たのは、誰かが息を切らして駆けてくる足音。真っ直ぐにこちらへと向かっており、その足を止める者はいない。この屋敷の中を走っていても、咎められない人物。  顔をそちらに向けながら、足音の主の姿が見えるのを待つ。数度呼吸を繰り返していると、その人物は階段を駆け上がって来たらしく、やはり息を切らしながら視界の隅に現れた。 「……っ! どけっ、貴様に用はない!」  真っ黒な短髪の男は、こちらに視線を向けるとびくりと肩を揺らし、そう怒鳴るように声を荒げた。赤い目の奥に潜む恐怖の色は、すでに見慣れた物。深く息を吐き、のそりと動いて扉を譲る。  男は極力こちらに近付かないというように廊下の端を歩き、扉の前へと進んだ。窺うような視線をちらちらとこちらに向けながら、こん、こんと男が扉を二回ノックすると、中から相変わらずごほごほと苦しそうな青年の声が、「誰?」と訊ねてくる。「ドイツァです、リカステ様」と、男は青年の声に応え、まるで目の前に誰かがいるように、しっかりと頭を下げた。  名前を聞いて彼が誰なのかを認識できたらしい、リカステと呼ばれた青年は、部屋の中で、「ああ、貴方か」と納得したように呟いていた。 「貴方は温室の管理人だろう? ……ああ、そうか。今日は満月なんだね。今年の開花日は今日だったのか」  リカステは訊ねながら、一人で答えを見つけたようにぽつぽつと呟く。それを聞いた男、ドイツァは更に頭を下げ、「その通りです、リカステ様」と口を開いた。 「私の管理している温室で、美しい花が咲きました。そのことをご報告したく、参上した次第です」  どこか誇らしげな、それでいて高揚した気分をそのまま口から零したような声音。そんなドイツァの言葉に、リカステは数度ごほごほと咳を落とした後、「そう」と静かに呟いていた。 「それで、どんな花が咲いたんだい? 管理人の貴方自ら僕の元を訪れるくらいだから、それ相応の花が咲いたんだろう?」  ほんの少しの期待と、同じ量の諦観を混ぜたような声で、リカステはそうドイツァに問いかける。ドイツァは彼の問いにさっと顔を上げると、それはそれは嬉しそうな表情で、「それはもう、リカステ様のご希望通りの花が」と呟いた。 「真紅の薔薇が、咲きましてございます」 「……っ!?」  扉の向こうで、息を呑むのが聞こえた。「紅い薔薇が、咲いたのかい?」と、リカステが絞り出すような声で質問を重ねる。  ドイツァはこっくりと頷き、「その通りです、リカステ様」と応えた。 「それはそれは、美しき真紅の薔薇。滴る血をそのまま固めたような、鮮やかな薔薇でございます。……場所は表層界の東の果て。狐共の領地内か、と」  すらすらと続けたドイツァに、リカステが「狐、か」とぼそりと呟くのが聞こえた。 「よく見つけてくれたね、ドイツァ。褒美は期待しておくと良い」  リカステはそう、朗々とした声で告げる。「下がって良いよ」と、彼が言えば、ドイツァは再びその頭を下げた後、一度こちらをじろりと睨み付け、足早に去って行った。来た時と同じように、転がる様な駆け足で。  そんな彼の後ろ姿を目で追った後、また扉の方へと向かおうと足を踏み出す。  「……ネメシア兄様」と、リカステが声を上げた。 「今の話、聞いてたよね?」  おそるおそるというような問いかけ。扉の方へと戻ろうとしていたネメシアは、その声に一度顔を上げると、「ああ」と短く応える。扉越しの大きな声での会話である。聞くなと言う方が無理であろう。思いながら、軽く息を吐いたネメシアに、リカステは扉の向こうから、「お願い、兄様」と静かに声をかけた。 「真紅の薔薇は、僕たち一族にとって象徴ともいえる大事な花。兄様の手で、手折って来てくれませんか?」  紅い紅い、血の色の薔薇。美しい鮮血の薔薇。確かにそれは、自分たちの一族にとってとても大事な存在で、これ以上にないほど、価値のあるものだけれど。  ネメシアはその両の腕を胸の前で組み、気怠げに視線を扉の方へ持ち上げると、今度は深く、溜息を吐いた。 「その間、誰がお前を護る」  花を見つけるのは、決して容易いことではない。一日二日で終わるはずもなく、下手をすれば何年もかかることも考えられるのだ。その間、自分の代わりに誰が彼を護るというのだ。  ごほごほと、リカステが咳き込むのが聞こえる。耳障りなその音に眉を寄せながら思う。自分以上に、彼を護ることの出来る存在などいるはずがないのだと。  そして、それと同時に分かってもいた。真紅の薔薇をもし、彼の元へと差し出すことが出来れば。  身体の弱い彼に、最愛の弟に、丈夫な体を与えることが出来るかもしれない、と。  案の定、リカステはネメシアの言葉を苦笑いで退け、「大丈夫だよ、兄様」と続けた。 「確かに、兄様以上に強い者なんて誰もいないけれどね。数を増やせば、少しはマシでしょう。逆に、花を見つけて手折るのは、とても難しいから。兄様にしか頼めないんだ」  「お願い、兄様」と、リカステは再度口にする。「真紅の薔薇を、手折って来て」と。 「…………」  落ちる沈黙は、自分が声を発さないがゆえのもの。何も言わないネメシアに、リカステもまたそれ以上何も言うことはなかったけれど。  「…………分かった」と、ぼそりと呟く。気が遠くなるような静かな空間に、折れたのはネメシアの方だった。 「花を手折って来てやる。……俺が戻るまで、死ぬな」  言って、ネメシアはその場で踵を返す。向かう先はただ一つ、表層界の東。薔薇の在り処。  扉の向こうではまた数度、ごほごほと咳が零れて。「お願いね、兄様」と、嬉しそうに呟く青年の声が、ネメシアの耳に小さく届いていた。
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