第一章 脱出 甲斐の国

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『オヤジの自慢は、かの武田信玄から浮気はもうしませんって証文をもらったことだ。まあ、証文なんていくらでも書けって言ってた人だからな。先代のお館様は。馬廻りの弥七郎を寝所に呼んだのは確かだが、腹が痛いって逃げ回られて、ヤレなかった。だから、浮気じゃないって間の抜けた浮気のわび証文だ。入れてないから浮気じゃないってあの武田信玄が書いてるんだぜ? しかもヤりそこねて、ふられてやんの。うやうやしく見せられて、信玄公お書付でうちの家宝で超真面目な顔してないと怒られるから神妙にしてるけれど、腹超いてえ。入れてないから、浮気じゃないって。オヤジが閨(ねや)に踏み込んだ時の武田信玄のあわてぶりを想像したら、おかしくて仕方ねえ。どう見てもヤってんじゃねえか。疾(はや)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し。マグロじゃねえか。夜の風林火山だぜ』  香坂弾正昌信の三男、香坂昌虎は焼香した。数珠をたもとに入れ立ち上がる。  天正十年、正月。甲斐武田家は織田信長に攻め滅ぼされた。諏訪方面から侵入してくる織田の軍勢が甲府になだれ込んでくるのも時間の問題だ。亡き父の位牌に手を合わせるのもこれが最後になるだろう。竹馬を取り落として泣きじゃくってもオヤジは振り向きもしなかった。父親ゆずりの美貌の少年は、刀を取った。 「ふん。俺のほうがキレイだ」  左の腰には、金銀の薄い延べ板を螺旋にまきあげた蛭巻き拵(こしら)えの脇差(わきざし)、打刀(うちがたな)、太刀の三本差し。右の腰には、鍔と十手付きの脇差のような拵えの鎧通し。武田の三本差し、四本差しと言われる重武装だ。普段着なら、打刀と脇差の簡素な二本差しが流行した戦国の世で、精強を謳われた武田の男の出で立ちだ。足元の藁沓は、革の鼻緒に朱の糸を編み込む。革袴も紅白の糸で足結(あゆ)う。逆三角の裃(かみしも)に見立てた陣羽織の襟は、首周りを呂宋(るそん)渡りのシャムのワニのクロコ革、胸元を唐物のユキヒョウの毛皮で飾る。当世風のバサラな出で立ちだ。     
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