第一章 脱出 甲斐の国

1/47
60人が本棚に入れています
本棚に追加
/47ページ

第一章 脱出 甲斐の国

「ふん、俺のほうがキレイだ」  幼子の目に涙が浮かぶ。またがって遊んでいた棒きれの先に馬首がついた竹馬を取り落として、あたりはばからず泣き始めた。 『オヤジは、キレイな人だったよ。香坂弾正昌信。本百姓だったが、相続で揉めた。オヤジは、領主だったかの武田信玄に訴え出た。もちろん、裁定はオヤジの負けだ。そんなことは最初からわかっていた。武田信玄は家中の争い事を公明正大に裁く。もともと無理な訴えだったんだ。たかが本百姓の家の家督なんてどうでもよかった。泣きじゃくるオヤジの目線も涙のしずくもそろばんずくさ。オヤジは小姓に取り立てられた。武田二十四将が一人。逃げ弾正の誕生だ。オヤジは、かの武田信玄から城をひとつ寝盗ったのさ』 『オヤジの戦いは、負けることから始まった。お館様お館様で、母上は床の間の置物だった。俺は抱きしめられてもらったこともなければ、頭のひとつも撫でられたこともねえ。子供心に覚えているオヤジの言葉と言えば、ふん、俺のほうがキレイだ、だぜ』     
/47ページ

最初のコメントを投稿しよう!