「あの頃の夏を」

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 広がっていたのは賑やかな世界。  たくさんの話声と歓声、誰かを呼ぶ声、笑い声がこだましている。  息を吸い込めば、肺を満たすのは潮の香。  途端、ひんやりとした感触。  足をなでる波。  ジリリと肌をさされる感触。  見上げて、目を細める。  真っ青な空に、入道雲。痛いほどの日差し。  立ち上ってくる砂浜からの熱気。  どこまでもつづく、深い青。  ああ、海だ。  私が立っていたのは、波打ち際だった。  私は半袖半ズボンに素足、という格好だった。  たくさんの人で埋め尽くされた海。あちこちで飛沫があがる。イルカやカメ、車の浮き輪やイカダのようなものまで。その中のたくさんの人々。波の中で笑っている。  振り向けば、色とりどりのパラソルと日よけが所狭しと並んでいる。  暑い砂浜を飛び跳ねるように走る子供たち。砂の城もちらほらと見える。  パラソルの下で、疲れたように寝転がる人。その姿すら、愛おしく感じられた。  こんなところに、五十にもなる男が一人で立っているのは、少し浮いた光景なのかもしれない。  キャア、と声が上がった。ザバアッと音がした。一際大きな波がきたらしい。  再び、私は海を眺める。  賑やかな海。夏の景色。  なつかしい。  私の胸は、その思いで満たされる。  目を細める。  眩しい日差しに、冷たい波。人々の歓声と笑顔。  そこで、ハタと思う。  私はどうしてここにいるのだろう。  私は何をしにここに来たのだろう。  チリン、チリン、と微かな軽い音がした。  チリン、チリン、と誰かを呼ぶように。  音がした方を見ると、遠くに、「氷」の暖簾がはためく海の家が見えた。  その軒先に風鈴が下がっているのだろう。  はて、あんなに遠くの風鈴の音が聞こえるものだろうか、と私は首を傾げた。  ゆらり、と視界が閉じた。
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