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1.屈託のある男
「あちい……」
熱気に満ちたジムの中で安藤浩一は独りごちた。夏はこれだから嫌いだ。
試合が近づいている。なぜ毎年夏なのだとずっと不満を持ち続けているが、今年も開催時期は変わらない。
社会人デビューと同時に参加し始めてから四年連続敗退という不名誉な記録を作ってしまった浩一にとって、今年はまさに背水の陣だった。一年に一度のアマチュアの試合とはいえ、ここまで負けが込んでくると、さすがに『引退』の二文字がよぎる。
よぎっているまさにその時、「浩一君」と背後から声をかけられた。
湘南格闘技連盟の並木享会長がやって来た。町内会の役員でもあり、浩一の両親も何かと面倒を見てもらった。いわゆる重鎮だ。
「お疲れさん」
「会長、お疲れ様です」
相変わらず顔が大きい。来ているポロシャツがはち切れそうなほど胸筋が出ている。威圧感と温厚さを併せ持つ男だ。
「大会のことなんだけどねえ」
隅にあるパイプ椅子に腰掛けながら会長がゆっくり喋りだした。
「はい」
汗を拭いながら浩一は答える。
「今年は屋外でやろうと思っているんだ」
突如会長の口から思いもよらぬ発言が飛び出た。
「え? 屋外? なぜですか?」
「大衆の目を引くためだよ。海水浴に来た人たちにも見てもらえるでしょ」
どうだと言わんばかりの顔を会長が向けてきた。耳を疑う事態が起きている。
「海水浴? ちょ、まさか」
「うん。そのまさかだよね」
にやけて会長が返事をした。
「屋外って、砂浜のことですか? ちょっと、海で格闘技って正気ですか」
浩一は語気を強めた。
ただでさえ夏の開催自体が嫌なのに、なぜ炎天下の砂浜で水浴びを楽しむ群衆に囲まれながら試合をしなければならないのか。野外の格闘技など聞いたことがない。ストリートファイトでももう少し場所を選ぶだろう。まさに潮時だ、とでも言いたいのか。
「目を引くって、キックボクシングの試合は見世物じゃない。アマチュアとはいえ一応興業でしょう。席代とかはどうするんですか?」
冷静に意見を述べた、つもりだ。
「立ち見で千円とかにしておけばいいでしょ。むしろ目新しいから盛り上がるよきっと。湘南の海で格闘技。何か良さげじゃないか」
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