【3】 青龍

3/4
前へ
/28ページ
次へ
 それは、男のようだった。身につけているものは武官の朝服(ちょうふく)に似ていたが、頭巾も被っていなければ、木笏(もくしゃく)も帯していない。咲いたばかりの菖蒲(しょうぶ)のように青い上衣と、白銀色の鱗のようにひんやりと光る袴。不思議なのは、そのどれもが、雨に濡れているようには見えないことだった。  男は(おもむろ)に、道の上に歩みを進めた。足を降ろすたび、ふわりと清風が起こる。  そして、翠巒の前に立った。 「翠巒」  思いがけず名を呼ばれ、翠巒は魂を掴まれた心持ちがした。  名には魂が込められている。人は己の魂を守る為に、普段は(あざな)を呼び名として用いた。翠巒も初めは村の者に字を名乗ったが、皆「琳先生」という呼ぶようになり、翠巒自身も、己の名を呼ばれることはないだろうと思っていた。  その時、空を覆っていた雲が割れ、一筋の陽の光が、男と翠巒を照らした。  二人、共に動かず、互いを見ていた。ぽたり、ぽたりと翠巒の着物から落ちる雫だけが、二人の間で唯一動くものだった。  清らなる眺めに出逢ったとき、翠巒はいつも、己の中に眠っていたものに再び出逢えたような感動を覚える。  自と他の境界がなくなり、(イツ)に溶け込む霊妙な瞬間――――人との出会いにそれを感じたのは初めてだった。 「翠巒」  魂の名を呼ばれることに、最早抵抗はなかった。 「はい」
/28ページ

最初のコメントを投稿しよう!

8人が本棚に入れています
本棚に追加