せみの声

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なんとか飛び乗った船のデッキから入道雲が見えた。あんなにやることに追われていたはずなのに、何も持ってこなかった為に10時間このまま過ごすしかない。太郎は観念して自販機で買ったビールを開け口に流し込み、そのままデッキに寝転んだ。6月の平日ということでさほど混んではない様子だった。喉を通って体の中を冷たい液体が流れるのを感じる。 こんなにのんびりとした時間はいつぶりだろうか。太郎はぼんやりと考えていた。 太郎とゆりが出会ったのは2人がそれぞれ今住んでる場所でもなく、太郎が今向かってる場所でもなく、都会というほどではないが少し賑わう街の学校だった。二人ともその街で育ったのだ。かといって幼馴染というほどではなかったので、高校に入って同じ美術部で過ごし、やっとまともに会話するようになった。特に共通の話題もないので会話が弾んだ記憶も無いが、卒業する際にゆりの方が太郎の住所を聞いてきた。電話番号やメールアドレスでは無く住所を聞かれたのは小学生以来だな、というのが太郎の脳裏に印象深く残っていた。 それからその住所が実際に封筒の宛先に書かれ、「たろちゃんへ」というお馴染みの宛名を背負って太郎の元へやってくるまでには3年を要した。 船が目的の港に近づく頃にはあたりはすっかり暗くなっていた。久しぶりに見るちかちかした夜景に目を痛めながら、太郎は船を降りた後の事を考えつつ荷物を再びまとめる。10時間ぶりに荷物を背負うと、何だかやけに軽く感じて心もとなくなった。船に乗っている間に予約しておいた東京駅からすぐの宿の場所を確認する。港はまだ明るかった。船から降りると少しくらっとしたが、すぐに歩き出した。駅に向かう道のりはほろ酔いのサラリーマンが楽しそうに笑っていて、なんだか急に寂しいような気持ちになる。 「僕は明日、ゆりちゃん に会いに行く。」 そう小さく呟いて、電車の駅へと足を早めた。
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