富士登山への思い

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奈良時代「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」  昔、祖先の大神『祖神尊(おおやのみこと)』と呼ばれしお方がおられました。  かの方は、自らの子孫である、諸国の神たちを巡り歩いていた。 「すまぬが、今晩の宿をお借りしたいのだが」  祖神尊は、福慈神(ふじのかみ)の元を訪ね、一晩の宿を申し出ていた。 「申し訳ありません。ただいま新嘗祭(にいなめさい)のために、家中が物忌(ものい)みをしております。今日のところはご勘弁(かんべん)願いたいのですが」  だが、こともあろう事か、福慈神はそれを断ってしまうのである。 「我はそなたの祖神(そしん)であるぞ、それでも宿を貸せぬと申すか」 「申し分けございません」  祖神であると分かっていながら、断った福慈神を祖神尊は悲しみ、お嘆きになる。 「(なんじ)が住まう山は、今後、冬だけではなく、夏も雪や霜に覆われるであろう。さすれば人もよらぬ、御食(みけ)(ささ)げる者もおらぬであろう」  そう言い残し、去って行ったという。  その後、筑波(つくば)の神を訪れると、新嘗祭でありながらも宿を貸してもらうこととなり、二つの山には大きな差が生まれ事になる。  福慈岳は、常に雪に覆われ、人の立ち入れぬ山となり、筑波の山は人が集い、宴をする人々で絶えることは無かったと伝う。    口伝で伝われた内容に、福慈岳は当時、人に恐れられていたのであろう事がみてとれる。それは同時に、人が踏み入れられぬ土地となったのは、祖先の神の怒りをかったのではないかという、当時の人々の思いが感じられるものでもあった。
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