温泉東雲

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温泉東雲

 元々大して寒さに弱い性質ではなかったが、最近では時々、寝苦しいくらいの温かさに目が覚めることがある。悪夢のもたらす不快な覚醒ではない。季節はまだまだ春の遠い二月。居間と寝室を隔てて寝ていた居候兼従業員が従業員兼恋人となり、どこかの常連客の妄想ではないが布団を並べるようになった。その隣の布団で眠る恋人が、時々というには多すぎる頻度でこちらに潜り込んでくることがある――いや、それは正確ではない。中年の仕方のない冗談に、年若い恋人が恥じらいながらも応えるから、自分たちは近頃よく、ひとつの布団で眠るようになったのだ。くびり折れそうなほどか細く、すっぽりと腕の中に納まってしまうくらいには小柄な日夏は、明け方の痺れるほど冷たい布団の中でじっと温まるのを待つより、ずっと手軽で心地よい湯たんぽだ。そうして二人分の体温ですっかり暑苦しくなって中途半端に目覚めると、たいていは日夏も寝苦しそうにしているのが、半分は我がことながらおかしかった。  寒々しさに目が覚める。  布団からはみ出していた左腕が、馬鹿みたいに冷たい。  西向きの部屋はまだ大して明るくなかったが、カーテンの隙間からは真昼の明るい光が輝くのが見える。今日も予報どおりの快晴だ。  見やった時計がそれでも少々早く目覚めたらしいことを知らせているが、勤勉な日夏はいつも丈より早く起きて、何くれとなく働いている。のそりと起き上がると、別段寒さに弱くはないがただの人間だ、鳥肌くらいは立つというもの。寝室を出るとしんと静まり返った台所にはかすかにガスコンロのにおいが残っており、コーヒーではなくどうやら紅茶を飲んだらしいのが、シンクの三角コーナーに捨てられたティーバッグでわかる。玄関の向こうからは洗濯機の回る音が聞こえるし、どうやら彼は既に一仕事終えたらしい。入浴すら後回しにして眠り込み、今、洗面台の鏡に映った無精髭の伸びた顔をなんとなく眺めている家主とは大違いだ。とりあえずシャワーを浴びがてら髭を整えようと、大欠伸をしながら脱衣所の戸を開けた瞬間だった。 「ひゃ」  素っ頓狂な悲鳴だった。  狭い脱衣所にいた先客は――もちろん日夏だ。  あばらの浮いた、はっとするほど白い腹が見える。それに、くすんだ色の小さな乳首。  トレーナーを脱ぐところだったらしい、くるりと背中を向けて、慌てた様子で裾を引っ張り下ろして隠す。 「悪い」 「……ううん」 「ここにいるとは思わなくてな」 「ちょっと早く起きちゃったから、あの、お風呂入ろうかと思って……ごめんなさい」 「なんで謝るんだよ」 「だって」  初めて見せる裸でもあるまいに、何を恥ずかしがるのだろうと実のところ理解に苦しむのだが。どうにも日夏は「こういうの」が苦手らしく、伸びた髪から覗く耳朶を真っ赤にして恥ずかしがっている。丈は謝罪と慰めを込めて、日夏の後ろ頭を撫でた。 「悪かったよ」 「ううん」  日夏が頭を振ると、柔らかい髪が手のひらをくすぐる。彼と暮らして知ったことは大小問わずいくつもあるが、その中に、風呂好きというのがある。潔癖というわけではないらしく、リラックスの手段としての入浴を好む。昨夜も、帰宅後にずいぶんな長風呂を満喫してから寝たはずだ。彼が眠ったあと二時間ほどで翻訳作業を切り上げた自分は、適温になった彼を湯たんぽに眠ったのだから。 「邪魔しちまったな。風呂入れたんだろ?」 「うん。ごめんなさい」 「なんでだよ。風呂くらい好きな時に入れって言ったろ」  控えめすぎるくらい控えめな彼の我儘は、今のところこの贅沢くらいだ。自分だけでは冬場でもシャワーで済ませることが多かったのもあり、この冬の水道代が倍以上になったのは事実だが、その程度の甲斐性はあるし、なかったとしても崇やエディあたりに出す酒を倍の値段にすればいいだけのことだった。 「俺も湯船浸かるかな」  洗濯に使うマメさがあるわけもなし、実害のあるカビ対策に湯船には湯を残さないようにしている。以前に無精から残したままにしていたら、浴室がひどい有り様になったのに懲りたのだ。せっかく風呂に入るタイミングで湯を張ってあるなら、抜かずに取っておいてくれと、一番風呂に浸かる彼に言いたかったのはそれだけのことだった。  ぱっと振り返った日夏が、頬を赤らめている。その、戸惑ったように揺れる瞳を、同じようにやや戸惑って見つめ返したのはほんの数秒だったと思う。次の瞬間の自分は、きっとやに下がった顔をしていたろう。 「――なんだ、一緒に入りたいのか?」  既に赤い頬を、さらに染め上げて。勘違いに気づいたこと、それを揶揄われたこと、どちらもきっと、ひどく恥ずかしいだろう。何か言い返したかったのかもしれない、開いた口をしかしすぐに閉じ、きゅっと唇を噛んでしまう。この、罪悪感を込み上げさせる表情は彼にしかできないと感心すらしてしまうが、これ以上揶揄っては本格的に加害者になるというものだった。 「冗談だよ」  もう一度彼の頭を撫でて、脱衣所を出ようとした時だ。  くい、と、スウェットの裾を引っ張られる。こちらを見上げる日夏が、意を決したように言ったのだった。 「冗談、なの?」  丈が大雑把に身体と髪を洗い、びしょびしょのまま洗面台のシェービングフォームを取りに戻り、くもった鏡でほとんど経験則のもと髭を整え終えるのを、日夏は湯船のへりから興味深そうに見ていた。 「なんだよ」  そのくせ丈が振り向くと、ちゃぷんと肩まで湯に潜ってしまう。  シャワーの栓を止めて右足から湯船に沈むと、二倍どころでなく増えた質量に盛大に湯が溢れ、しみじみとため息が押し出される。くすりと唇で笑う彼にはまだ、これが遥か祖先から遺伝子レベルで組み込まれ、いつかは必ず発症する症状だとわからないのかもしれない。 「ほら、こっち向け」 「――あ、うん」  こんな状態でも遠慮がちに膝を抱えて縮こまっている日夏を、正面へ追い立て、彼の細い足首を掴んでこちらへ伸ばす。自分一人でさえじゅうぶん手足を伸ばせない狭い浴室に二人となれば窮屈極まりなかったが、鑑賞にはやはりこの角度がいい。はー、ともう一度ため息をついて、丈は朝風呂の心地よさに身体を委ねた。 「丈さん」 「ん?」 「やっぱり、そっち行っていい?」 「なんで」 「だって、恥ずかしい、かも」  うっすら立ち昇る湯気の向こう、日夏がもじもじと目を伏せる。丈は天井に向かって思わず吹き出した。  彼を抱いたのは、もう一度や二度ではない。この湯船でもだ。丈の前であられもなく開いてみせる身体を、今は恥ずかしそうに隠すのがやはりおかしい。 「そんなんじゃ、温泉なんて行けねーな」 「……どうせ無理だよ、俺」 「海外にもあるぞ。あっちはタトゥーなんて関係ない。トルコとかアイスランドとか、ハンガリーなんか有名だったか。俺は行ったことないけどな」 「へえ」  日夏の瞳が明るく輝く。温泉とか銭湯が、本当は好きらしい。過去の彼が彼自身に刻んだタトゥーのせいで公衆浴場に入りづらいことを、今の彼は悔やんでいるのだ。 「行ってみたいな」 「ああ、連れてってやる」  日夏ははにかむように笑って、湯の中でくるりと背中をこちらに向ける。そのままゆっくりと丈の胸の中に納まると、ぽつりと呟くのだった。 「ここでいい」 「安上がりだよなぁ、お前は」  また笑わされながら、日夏を抱きしめる。回した腕に指がかかり、浅いため息が浴室に響いた。  彼を抱いたのはもう一度や二度ではないのに、襟足の間から見えたうなじの色気にたった今気づいたような気持ちで、堪らず唇を寄せる。 「ん」  くすぐったそうに笑い、日夏が肩を震わせる。  お互い少し早く起きてしまった昼下がり。今日も夕方から店を開けなければならないし、その前に翻訳作業の残りを片づけようとも思っていた。 「嫌か?」  手のひらでさすった日夏の下腹が、ぴくりと動く。ゆらゆら泳ぐ下の毛を撫でてやると、もう一度、ぴくり。 「…………ううん」  肩に頭を預けて見上げてくる、彼のつんと上向いた鼻先にも口付ける。それから、唇に。 「ん……む」  恋人の唇を味わい尽くす頃、彼の襟足はすっかり濡れてしまった。  はあ、少し苦しそうに息をした日夏は、ぐったりと丈にしがみつくと、吐息混じりに囁いた。 「――のぼせちゃうよ」 「――――俺もだよ」
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