六十年分の仕事

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 薊森田がぱっと私の身体を離した。がくんと身体が落ちかけて「ひっ」と思わず悲鳴を上げたけれど、私の身体はちゃんと空中に浮いていた。  薊森田がさっさとその光の元へ行こうとするので、私は「ま、まって…」とよろよろとその後についた。  こう、ゆるゆるのトランポリンの上を加減をしながらバランス良く歩いて行くようなイメージ、とにかく難しい。  なんとか薊森田の隣に並び文句の一つでも言ってやろうとしたが、光の中から見えた人影に、はっと口を噤んでしまった。 『はあ、どうして料理のひとつも満足に出来ないのかしら』 『愛想もないし、頑固だし。それじゃあ人も寄り付かないよ』 『やだやだ。これじゃあいつまでも離れられやしないじゃないか』  まるで独り言のようなそれは、とある民家に向けられていた。  光の中、悩ましげなおばあさんが一人、ひっそりと見えた。 「そうか…浮遊魂って浮幽霊みたいなものって…言ってたっけ…人型なんだ…」 「当たり前だろ、なんだと思ってたんだよ」  相変わらず棘がある。  腹が立ったので前髪を手櫛で整えながら「不親切コス男が」とバレぬ程度に悪態をついておいた。 『ああ、違うよ。そっちの引き出しに缶切りはないよ』 「あの、郡山光代(こおりやまみつよ)さんでしょうか?」 『だからそっちには……』  おばあさんの独り言がようやく止まる。振り返ったその人は大体、六十代後半から七十代前半だろうか。  〝おばあちゃん〟と言うには若々しく、〝おばさん〟と言うには少しお年を召したような方だった。
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