六十年分の仕事

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 シンクの前に立ち、お皿を洗うおじいさんが「はあ」と疲れたような溜息を吐きだした。  それにおばあさんはすぐに反応し『あんたまた溜息!だめだよ!幸せが逃げていくからね』と説教しているようだった。  ―――だめだよ、お姉ちゃん。溜息ついたら幸せが飛んでいっちゃうんだよ!先生が言ってたよ!  そういえば六つ年下の妹に、そんなダメ出しされたことがあったな。ああ、そうか。おばあさんのような先生が学校で教えてくれたんだ。きっと。 「郡山さん」  薊森田が声をかける。今までよりも少し力の入った声色だった。 「最後に。どうしても言っておきたいことや聞いておきたいことって、おじいさんにありますか?」 『言っておきたいこと?それはないけど…あ。聞きたいことならあるよ。一つだけ』  おばあさんは首を傾げてすぐに、手のひらを合わせた。 『昔から夏になると近くの神社である祭りに、あの人の作った花火を必ず見に行っていたの』  それは、ひと夏の。  ほんの一瞬のお話だ。 『それまでは人ごみがずっと苦手だったのに、あの人と出会ってからあの人の作った花火を見に行くようになって、お祭りが好きになった。あの人が引退してからも、よく祭りに出かけてはあの人のお弟子さんが作る花火を見上げに行っていたわ。  だけどあの人ったら、自分が花火を作らなくなった途端、急にお祭りには行かなくなっちゃって…きっと、行ったら行ったでまた花火を作りたくなってもどかしい気持ちになるから行きたくなかったのね。  そんなある年も、私があの人をお祭りに誘ったの。勿論、いつものように絶対に行かないって言い続けて、とうとう私は一人で神社に出かけた。近所の人たちは顔見知りだし、一人でも平気だったけど、とても夜風が気持ちの良い夜だったので、せっかくだったら隣にいればいいのに、と思ったわ。  それでその日もまた前の年やその前の年のように、一人で花火を見て、一人で帰って、花火の感想をおじいさんに言った後、小言を言われるんだろうと思っていた。  けれどね』
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