六十年分の仕事

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『その日は二人で家路についた。とても、とても素敵な夜だった。不思議とおじいさんが優しくて、不思議と私も安らかで。そういうの〝不思議〟って重なるもので、私は次の日の朝、ぽっくり死んじゃうの。  この家の、ちょうどここね。ここに布団を敷いていつも眠っていたんだけど、眠ったまま倒れていて、そのまま。あまりにも急だったから、病院に私が運び込まれてもあの人は唖然としてた。私も気が付いたら病院のベッドの、私自身の上にいて…誰に話しかけても、もう誰にも声は届かなくなっていた。  あの人がベッドの横で静かに座って、私のことを眺めていた。声をかけても、大丈夫よって肩に手を載せても、もう気付いてくれないの。あの目を向けてくれることも、不器用な言葉をかけてくれることも、もうないの』  おじいさんだけの生活音が、この人の耳にはどんな音として届いているのだろう。 『それからずっと眺めてる。最近どこか元気がなくて、花火の写真も見なくなった。家事が下手で、人付き合いも下手で、それなのに元気もなかったら、誰もあの人に近寄ってなんかくれない。これから先、ずっとひとりぼっちだったらどうするつもりだろう。私達には孫もいないし、誰も支えてくれるような人がいない。この人が寂しい思いをして生きるなら、私は安心してお天道様の元へ行けないじゃないか』  『しっかりしとくれよ、全く』とまた愚痴を言うような声色に変わり、おばあさんはおじいさんの元へ駆け寄っていた。  その後ろ姿は薄ぼんやりしているけど、姿はおじいさんと変わらぬ人のかたちをしている。  しているけど、決して違うものなのだ。 「………あなたが、どうしてもおじいさんに聞きたいことは何ですか」  薊森田がおばあさんに訊ねた瞬間、ポケットに忍ばせていた帳簿が浮き上がり、バタバタと凄い音を鳴らし見開きになる。 『どうしても聞きたいこと、それはね』  おばあさんは笑いながら、こちらを振り返る。  まるで、観念と希望を入り混ぜたような声で、 『それはね』  今一度、呟き、私に耳に星砂のようにさらりと積もった。
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