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―――は、とした。帳簿から指先を離し私は木の上から下りた。
ぐらりと足場が不安定になるのは、要練習だな。飛ぶって難しい。
薊森田が訝しげな顔をして「どこへ行くんだよ」と言う。
「光代さんのところ!私、初めてだし…ちゃんと忠実に書いた方がいいと思うから!!」
よろよろと飛ぶ私の隣を時間差で付いて来て、薊森田は「へえ」と物珍しげに声を上げた。
「もっと適当すんのかと思ったけど」
「は?なんで」
「〝暇潰し〟らしいし?」
「……あのねえ、私の暇潰しは他人にとって関係ない事情でしょ。別に適当に過ごしたいってわけじゃない」
伏せ目がちに見遣れば、薊森田は「俺は巻き込まれてるけど」と言うので「あんたは私を殺したんでしょう」と言い返しておいた。
「…光代さん!」
『あら、随分早いのね。手紙が出来たの?』
「いいえ、まだなんですけど…あの!」
筆を握りっ放しで来てしまった。帳簿は薊森田が持ってくれている。
「光代さんにとって、一番大切なものってなんですか?」
あの家に、もっとも大切な、
『大切なものはたくさんあるわ。冷蔵庫に付けっ放しにしているマグネットに、花火の写真、新聞の記事に、積もり積もったカレンダー。どれもあっても仕方のないものばかりだけれど、私にとって大切なもの。その全てに思い出が、シゲルさんとの思い出が詰まっているもの』
家の周りを旋回し、今日もおじいさんの様子を見下ろしている。
『結局私の一番大切なものは、大切なひとはシゲルさんなの』
ああ、こんなに優しさに満ちた声だったのか。最初から。はじめから。
『彼さえ幸せなら、他になんにもいらないのよ』
ヒントはずっと、そこに落ちていたのだ。
「薊森田」
ふよふよと後ろを飛んでいた男に声をかける。返事はないけど、話を聞いてはいるのだろう。
「私は手紙のマナーなんて知らないけど、思ったように書けばいいんだよね」
「書くのを任されているのはお前だ。自由にすればいい」
「わかった」
シゲルさんへ―――の出だしで始まる文を、私は帳簿に書き止めた。
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