序章 東から来た男

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   ― Ⅲ ―  ――すべて想い出した。  かくして彼の人生は、あえなく幕を閉じた――……はずであった。  東雲(しののめ)はおそるおそるといった様子で、両の手の平を握りしめた。 「お、おぉ……!」  動く。足もある。  ぱたぱたと全身をくまなく叩き、しまいには犬のようにその場でくるくると回り出した。 「い、生きている……! いや、やっぱり死んだのか!? どっちだ!?」  彼を死にいたらしめた傷も、矢に塗りこまれていた毒も、きれいさっぱりなくなっている。こんな都合の良いことがあっていいのだろうか、まるで荒唐無稽な御伽草子のようだ。  あまりに非現実的な展開に東雲は困惑し、胸や首筋に手を当てては、はやる心臓の脈動を何度も何度も確かめた。  死後の世界など、ありはしないと思っていた。  杉の巨木に身をあずけたまま、自分のすべてはあの瞬間に終わりを迎えるのだと絶望した。  それがどうだ。こうして自由に動かせる五体満足の体がある。これ以上に望むことなどあろうか……。  じわり、と全身が熱をおびる。次第に笑いが込み上げてきた。笑うなど何年もしていなかったので、引き攣りうまく声も出せなかったが、彼は忍者になってはじめて、腹の底から思う存分笑い転げた。 「くッ、ははッ……! 生きてる、生きているぞッ!」  この際ここが地獄だろうと構わない。たとえ寝物語に聞くようなむごたらしい奈落の底であったとしても、――それがなんだというのだ。そんなことは些細な問題に思えた。 「……儲けたのう!!」  歓喜のあまり全身が震え、じんわりと汗までかいてきた。  黄泉の国のことなど詐欺法師の絵空事とまるで信じてはいなかったが、死後に続きがあるというならば、これまでの(うつ)ろな日々をやり直すことができる。東雲は息巻いた。  どうせ一度は死んだ身である。鬼がいようと閻魔が出ようと、もうなにかに縛られるのはまっぴら御免こうむる。今度こそ何者にも指図されず、己の好きなようにやってやろうではないか。
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