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その日、僕は一ヶ月の昼飯代を水族館の年パスに変えた。
生保レディをしている母親から、月初めに渡される一万円。
どうせ高校に行かないなら、好きな場所で好きなだけ過ごせる方がいい。
『遙斗はここが大好きなのね』
小さい頃、両親に手を引かれて通っていた地元の水族館。一年間に三回来れば元が取れる年パスを、我が家はいつも三枚買っていた。
五回目の年パスを買った翌月に両親が離婚した。僕と僕を引き取った母親がその後この水族館を訪れることはなかった。
八年ぶりにここに足を運んだのは、年パスがお得だったことを思い出したから。一か月だけ昼飯を抜けば、一年間の居場所を確保できるから。
それに、学校に行けば……金はどうせあいつらに取られてしまうから。
そんな理由で訪れた水族館の最奥、メインとなる大水槽で人魚は泳いでいたのだった。
やがて、僕の視線に彼女が気づいた。
有り得ない存在と目が合った瞬間、僕は黒く深く澄んだ美しい瞳に吸い込まれてしまった。
人魚はゆっくりと僕の前まで泳いでくると桜鯛のように鮮やかな尾鰭を揺らし、太刀魚のように体を起こした。
「み・え・る?」
僕の目の前で、珊瑚色の艶やかな唇が動く。
それから小首を傾げて僕に答えを促す。
人魚って、日本語しゃべるんだ。
そんな間抜けな感想を抱きつつ、こくりと頷いて返事をすると、驚いた表情で目を丸くした。
「な・ま・え」
人魚は再び唇を動かすと、今度は人差し指を僕の鼻先に向ける。
「は・る・と」
水槽にへばりついて自分の名前を呟く僕を訝しみ、隣にいた親子連れがそそくさと立ち去った。
けれど、人魚はそんなこと気にも留めない様子で僕を指さしたまま「は・る・と」と唇を動かした。
控えめに綻んだ笑顔。
思わず見惚れた瞬間に、目の前の人魚は消えて見えなくなっていた。
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