第1章 束縛はワルイイ

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 最近、某動画サイトで投稿している夫婦が話題になっていますね。今回僕が思ったことは、「束縛」って悪いものなのか?ということです。この疑問を持つ僕は当然悪いことだと思っていません。文字面で悪いもの、恐ろしいものだと捉えられてしまいそうですがそもそも「束縛」とは「自由に制限を加えること」を意味します。現代を生きる僕たちはみな等しくされています。自覚はないかもしれませんが「法律」もその一種であることはおわかりでしょうか。 なぜ「法律」には「束縛」にあるような強制感がないのか。それは「人間が人間たるために絶対的に犯してはならぬもの」であり、それを犯した場合にはより重い枷をかけられることをわかっているからです。これは「法」という広い観点から見ているために犯さないことが当たり前となっていますが、「束縛」は個人個人間の係わり合いの仲でのみ生じているため窮屈感が生まれてしまい、守る必要がないものと捉えられてしまうのです。表面上に浮き上がってきたために守ることに反発をしてしまうのです。  「束縛」されることには必ず理由がなくてはなりません。遊びたい盛りの学生のころ親に門限が課せられた方も少なくないことでしょう。それは親が我が子に危険な目に遭ってほしくない、世間から冷たい目で見られる人になってほしくない、そんな思いがあるからでしょう。なぜ課せられるのかを考えると、どうしたら課せられないで済むのかがよくわかると思います。どうすればよいのでしょうか。課せられるまでもなくしなければ良いのです。したとき課されるもの、それが「束縛」であるのなら、そのルールが浮き彫りになる前に暗黙の了解として自分に理解させておくのがよろしいかと思われます。  今回の騒動も元はといえば、女性側に浮気癖がありそれを直すためにルールが課されたということらしいです。つまり、浮気をしなければ最初から課せられることがなかったのです。浮気が世間から認められないことを理解して、してバレたら大切な人が傷つくことを考慮しても尚したいというのなら、それを許容することが当たり前の人を見つければよいのです。もしそのパートナーと離れたくないのなら、しなければ良いのです。  「今の自分」を大切にすることは良いことだと思いいます。しかし、もしその「今の自分」に「未来の今の自分」を含まないのならば、その選択は愚策でしょう。 長文失礼いたします。
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