移ろう香り

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 別れてからも彼を想い辛いばかりだった。  このままではいつまで経っても明るさを取り戻すことが出来ない。何かを変えるしかないと引っ越すことにした。それがこの部屋だ。    彼が一度も踏み入れていない部屋で新しい生活を始めた。英会話スクールは辞めた。顔を合わすのはまだ辛かったからだ。  通勤ルートの変更で否が応でも生活は変わっていった。そうやって少しずつ元の自分を取り戻してきた。    トマトの茎にそっと触れると懐かしい香りがする。  「俺、トマトのヘタの匂いが好きなんだ」  実の香りより濃い香草のような香りが好きだと言っていた。シンガポール料理の香辛料もきっと彼の口に合っているだろうと雲のない空を見上げて思う。  今年のゴールデンウィークに初めて植えた中玉トマトだ。私以外の誰も触れたことのない白い産毛を撫でると濃い香りが漂ってくる。  か細い茎はあっという間に指くらいに太くなり、背丈も三倍以上大きくなった。  逞しく育っているのに、その産毛は常に儚く指で触れると簡単に折れてしまう。脆く折れる代わりに香りを強く放っている。  毎朝水やりして、じっくり観察する。  「花が開いたら指で優しくはじいてくださいね」  この苗をくれた人に言われた。黄色の花に人差し指でそっと触れる。そうすることで受粉と着果を促進させるのだ。  まだ小さい小豆粒くらいのトマトを見つけた。スマートフォンのカメラでその姿を収めた。  これを見せたい人がいる。    「僕はトマトが苦手です。でも、あなたが育てたトマトなら食べられると思うんですよ」
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