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夏が来た。
今年の夏はいつもと違う。俺にとって特別な夏だ。
いや、俺たちにとって、と言い換える必要がある。
草木が生い茂る急斜面を鎌で切り開きながら進んでいく。
空気は粘ついてうどんのように重い。10メートルもあるかない内に肌着が湿ってきた。
風は生ぬるく、花束が汗で滑り落ちそうだ。
照りつける太陽はもう昇っているが、まだ山影に隠れている。だが、時間の問題だ。
息を弾ませて山道を急いだ。ワイシャツが背中に張り付く頃、ようやく黒ずくめの集団が追い付いてきた。
真新しい御影石の前にめいめいが酒やお菓子を供える。僧侶だけが突出しているが参列者の平均年齢は20代だ。
読経が終わって、ボブカットの女性が線香を立てた。若い男女が次々と焼香する。
ちょうど麓の町でサイレンが鳴った。死因も亡くなった場所も違うが時間だけは同じだ。
黙祷。
想いをささげる人々の気持ちは俺たちも同じだ。過ちは二度と繰り返してほしくない。
もっとも、言っちゃあ悪いが俺にとって8月の夏はこんなに湿ったものではなかった。
教科書に載っている悲劇だって歴史の一ページだと捉えていた。自分には縁遠いことだと。
ところが、ひょんなことから特別な夏を過ごす人々の一員に加わることになった。
かけがえのない人をとつぜん奪われた悲しみは雪のように積り、なだれ込む。降りやむことはない。
いや、止ませちゃいけない。
この日を忘れない。そして、子々孫々に語り継いでいく。
悲劇を阻止するチャンスも手立てもあったはずだ。でも、何もできなかった。
そして、俺も阻めなかった。だから、余計に自分が憎らしく、もどかしい。
でも、俺は誓う。過ちは二度と繰り返させないと。
来年も、再来年も、この夏の日に、この場所で、君に約束する。
俺は墓前にそっと指輪を置いた。
2021・8・9
ミライテクノロジー社開発部専属システムエンジニア 姫栗くおん
ストレス性の肝硬変から肝癌に至り、力尽き、ここに眠る。
そして、サマータイム対応の納期に追われて散っていった同僚たちのために。
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