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10年前の新月の日、人類は前代未聞の災厄に見舞われた。
なんの前触れもなく、海が溢れたのだ。
最初に大洋の中央部が盛り上がり、ドーム状になった。
やがて重力に引かれて水槐が元に戻ると、周囲に同心円状の巨大な波がいくつも作り出された。波頭までの平均的な高さは標準海面から60メートル。
最も高いものは100メートルを超えていた。
人類の6分の1が直接の被害で死に、ほぼ同数がその後の混乱期に亡くなった。
生き残った人類で、海を好きな者はほとんどいない。
海が溢れた時、15歳だった佐藤と2つ年上の澪は共に生き残った。
その後は二人で生きてきた。
彼は海洋生物学者となり、澪は助手として彼の「ダイブ」を支援している。
ダイブとは水に潜ることではなく、自分の意識を飛ばして他の生物の体内に潜ることを言う。
対象生物の内側から行動を観察し、調査・研究を可能とする、世界中でも佐藤の他には数人しか持っていない特殊能力だ。
意識が抜けている間、澪が彼の身体を保全する。
タイムリミットは24時間。
どのような延命措置をしても、空っぽの肉体はそれ以上もたないからだ。
彼女は洋上での研究および生活のすべてを取り仕切っていた。
佐藤の秘書兼助手であり、操舵手であり、母親代わりで同棲相手でもある。
まさに八面六臂の活躍だ。
澪がいなければ彼は、ダイブどころか陸地から一歩も離れることが出来ないだろう。
「佐藤くん。どう、行ける?」
彼は双眼鏡を覗き込んだまま、行くしかないだろうと返事をした。
イルカにダイブする絶好の機会だから、逃したくない。
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