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10年前、海はあふれた
当時17歳の舟橋澪が彼に手を差し伸べる。
「かわいそうに」と艶やかな唇が動いて、膝を抱え込んだまま動かない佐藤の手を掴む。
まるで海全体が陸地に乗り上げたかのような、高さ50メートルを超える津波が押し寄せた時、二人は同じ建物の中にいた。
激しく動揺する高層ビルの階段室で途方に暮れていた彼を救ったのが、澪だ。
彼女に手を引かれて階段を上へ上へと向かった。
屋上にたどり着いた彼らは、一面に広がる青い海と、まるで水中遺跡の石柱のように所々から突き出している傾いた高層ビル群を見て、息を飲んだ。
佐藤は腰が抜けて、その場に尻をついた。
澪は手すりに沿って屋上をぐるりと一周し、時の経つのも忘れて海中を覗き込んでいる。
佐藤は、怖くないのかと声を掛けた。
「赤ちゃんの頃から独りだったから」
失うものがないから恐怖心が湧かないのかもね、と白い歯を見せた。
次の瞬間、ビル程も大きな水柱が立った。
白濁した水は重力に引かれて落ち、手すりを越えた海水が彼らのいる屋上を流れる。
水柱が消えると、シロナガスクジラが天を向いて屹立していた。
クジラは一音も発しなかった。
巨体のわりに小さい、赤く血走った目が佐藤を見つめただけだ。
それで海の言葉は伝わった。
「海から出た者達よ、再び海の声を聴け」
救助された後、彼は海洋生物の研究者となる道を選んだ。
佐藤は病的なまでに海を怖れていたが、クジラの預言とダイブの能力が他の選択肢を許さなかった。
目的は海洋哺乳類にダイブし、いつか大型の鯨とコンタクトを取ること。
彼らはかつて、地上から海へ還った者たち。
その中でも例のシロナガスクジラや深海を泳ぐマッコウクジラなどは、海の声を聞き、海と深い繋がりを持つ存在と考えられているからだ。
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