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潜行《ダイブ》
佐藤はダイブしたイルカの体ごと、まっすぐに暗い海底へと落ちて行った。
一頭のイルカが彼の視界に出たり入ったり、心配そうな様子でついてくる。
ヒレひとつ動かせない。
彼の意識と肉体が繋がっていないからだ。
自分の身体へ戻ろうとダイブ・アウトを試みたが、外に出られない。
何故こんな事になったのか。
今までのダイブでは必ず、体の持ち主の意識が体内に存在した。
ところがこのイルカは空っぽなのだ。
まるで彼の侵入と同時にアーネストの意識が消滅したかのようだった。
このままでは彼を取り込んだ状態で、イルカの肉体は死ぬ。
佐藤は焦った。
ならば閉じ込められている僕は、どうなる。
澪、助けてくれ。
彼は心のうちで呼んだ。
初めてダイブをした日、震える彼を抱いて慰め、落ち着かせてくれたのは彼女だった。
この10年、彼らは同棲生活をしてきた。
佐藤が苦しんでいると、彼女は心と肉体の両面で癒しを与えてくれる。
そのしなやかな肢体を求めれば、拒むことはなかった。
佐藤は癒されながらも、その度につらく思う。
なぜなら澪は、彼を愛していないのだ。
「愛してはくれないのかな」
問いかけると、彼女の瞳に憐れみの色が浮かぶ。
「愛なんて不自由なものじゃない? 私の意志であげたり、もらったりは出来ないの」
私が君に与えられるものは全部あげているでしょ、と澪は目を閉じた。
「好きに使っていいのよ」
彼女と肌を重ねている間は、海やダイブの恐怖を忘れることが出来た。
澪が彼のことを愛してくれさえすれば、肉体関係は不要かもしれないのに。
まあいい。もう届かない過去のことだ。
青い空の光は円形の窓となり、周辺を黒い闇が支配し始めた。
もう戻れない。
「ありがとう、澪。愛していたよ」
青い丸窓の中に、小柄だが美しいフォルムをした雌のイルカ、マリアンの姿が見えた。
鳴き声が耳を打つ。
硬直したまま海底へと沈んでいく仲間を、必死に呼んでいるのだ。
体が冷たくなって、目も霞んできた。
彼は間もなく、アーネストの肉体と共に死ぬ。
不思議なことに、今は海に対して恐怖を感じない。
僕がイルカになったからかな? その発想はなんだか可笑しかった。
やがて周囲を暗闇が取り囲み、静寂が訪れた。
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