一章

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「すみません。聞くつもりはなかったんですが」  どこまで聞かれたのだろう? 「人が悪いな。さきに行っていろと言ったぞ」 「すみません。ウワサを思いだして……」  申しわけなさそうに、ハシェドは頭をかいている。 「ウワサ?」 「昨日、話した、男の死体のことです。たぶん、発見されたのが、このへんだと思うんです。それで隊長に知らせておこうと……すみません」 「べつにいいさ。いつものことだろ」 「おれ、てっきり、隊長の恋人は、いつもの手紙の人だと思っていたので、ちょっと混乱してしまって……」  毎回、ワレスに手紙を送ってくる、皇都の女友達のことを言っているのだ。ワレスが皇都に持つ屋敷の管理などをたのんでいる。 (今でも、ジェイムズが、おれの特別な人だと勘違いしたのか)  まあ、それもいいかもしれない。  ハシェドにはそう思わせておくほうが、ハシェドのためにも、ワレスのためにもいい。  ハシェドの気持ちに応えることは、永遠にできないのだから。 (おまえが、おれの特別な人……)  ワレスは切ない気持ちで、ハシェドを見つめた。 「彼女はおれの母親みたいなものだ。ジェイムズの近況を教えてもらっているんだ」と、嘘をついた。 「そうですか……」  ハシェドの表情が暗く沈みそうだったので、ワレスは急いで話をそらした。 「もういいだろ? 中隊長の暗殺計画を聞かれたというのなら、おれもあわてるが」 「そんな冗談言って、知りませんよ。誰かに聞かれても」 「冗談なものか」  声をそろえて笑ってから、ワレスはあたりを見まわした。 「それで、死体があったのはどのへんだ?」 「おれも、はっきりとは。でも階段のあがりぐちと聞いたので、このへんでしょう」  ボイクド城は古い城なので、階段やあがりぐちは中央がすりへって、わずかだが石がくぼんでいる。  その床に上半身だけの死体が倒れずに立っていたとなると、よほどバランスよく、くぼみにおさまっていたのだろう。  ワレスはそのあたりを念入りに検分した。 「血だまりがなかったというのも、ほんとらしいな。見たところ、新しい血のしみはない。人の仕業でないことだけは、たしかなようだな」 「内塔で起こらなくてよかったですね」 「ああ。行くか」  歩きかけてから、ワレスは妙なことに気づいた。ふたたび、床にひざをついて、ながめる。 「どうしたんですか? 隊長」 「このあとは、なんだろうな?」  階段は窓から離れていて、少し暗い。だから、初めは気づかなかった。 「ここだけ、いやに石の色が明るくないか?」  ちょうど腕くらいの太さだろうか。  床の石畳に丸いあとがある。といっても、切れめがあったり、液体をこぼしたようではない。  ハシェドもワレスのそばにしゃがみこんできた。 「そう言われてみれば、まわりと少し色が違いますね。模様みたいに見える」  こすっても、指につくのは砂だけだ。 「塗料でもないな」 「わかりませんね」  しゃがみこんでいるワレスたち二人に、 「ジャマだ。どけ」  背後から声がかかった。  食堂に近い階段だから、人の通りが多い。  正規兵なのだろう。ワレスの知らない男だ。  ワレスと同じ小隊長のマントをつけ、肩をそびやかして追いこしていく。 「感じの悪い小隊長ですね。まんなかをふさいで、こっちも悪かったけど。いくらでも、よけていけるのに」  ワレスは肩をすくめた。 「どうせ、もう会うこともないさ」  傭兵と正規兵が任務でかかわることは、まずない。  ワレスたちは男のことなど気にもせず、文書室へむかった。
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