一章

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「ひさしぶりに紙巻きタバコを吸おうと思ったんだ。辞書に使うレバソン紙は薄くて丈夫だから、タバコを巻くのにちょうどいい。皇都ではみんな、そうしていた」 「とんでもない! 隊長はキレイな銀のキセルを持ってるじゃありませんか。辞書みたいな高価なものをやぶくだなんて、信じられませんよ」  憤慨(ふんがい)しているハシェドに、ワレスは笑みをさそわれた。 「おまえは健全な精神をしているな。本など、ただの紙だと思えば、紙代以上の価値はなくなる」  まったく、ハシェドは、よほどの与太者でも来たがらない、この魔境にはもったいない。  ハシェドの母がユイラ皇帝国と敵対するブラゴールの女でなければ、きっと、砦の傭兵になどならなかっただろう。そう思うと、見たこともないハシェドの母に感謝したくなる。  ハシェドは、ワレスの言葉を真に受けて怒っている。 「それは隊長が文字を読めるからです。おれなんて、読みたくても読めないから……」  しょげているので、かわいそうになった。 「そういえば、手紙の上書きも代筆してもらっていたな。しかし、家族宛ての手紙は自分で書いてるじゃないか?」 「ブラゴール語の読み書きはできますよ。母に教わったので。父は忙しい人で、家をあけていることが多かったですから、ユイラ語は勉強できませんでした」  砦の傭兵なんて、一日一枚の金貨で命を売る者たちの集まりだ。それぞれに事情がある。ふだんはよほど親しい間柄でも、立ち入った話はしないし、聞きたがらない。  ワレスも、母がブラゴール人であること以外、ほとんどハシェドのことを知らない。  その日はたまたま、そういう話の流れになった。 「おまえの父は何をしていたんだ?」 「父はブラゴールの品物をユイラに持ち帰り、売りさばく、貿易商の家に生まれました。だから、ユイラとブラゴールを行ったり来たりしていたんです。母と知りあったのも、そんな関係からです。結婚してからも、父はずっと仕事を続けていました」 「大恋愛だったんだな。おまえの両親は」  ハシェドはむずがゆいように笑う。  その裏に、なんとなく素直に笑えない感情があるように見えて、ワレスはおどろく。  ハシェドにそんな(かげ)りを感じたのは初めてだ。  いつも、真夏の陽光のようなまぶしさが、ワレスの暗い心を救ってくれていた。  すると、ワレスたちの会話を聞いていたクルウが、口をはさんだ。 「分隊長の母上は、上流階級の姫君ですね。それも、ひじょうに高い身分の。私は以前、船に乗っていたので、ブラゴールにも何度か行ったことがあります。あの国は女性の権利がひどく限定されていて、ふつうの家庭では、文字を読みたいなどと言えば、女のくせにと罵られますよ。ブラゴールで文字を読む特権を持っているのは、男でも貴族か王族。それに仕える一部の者だけです」
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