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九章
翌日。ワレスの部屋。
昨夜はけっきょく、あれ以降、魔物は現れなかった。夜半に見まわりを切りあげ部屋に帰った。
「もう、なんでさッ。用があるっていうから来てやったのに、なんで、みんな、おれのこと見ると逃げだすの? ひどくない?」
エミールがカンカンになって部屋にとびこんできた。
どうも昨夜のことをホルズたちが吹聴したらしい。
傭兵たちがエミールの姿を見るやいなや、オバケに遭遇したように悲鳴をあげて逃げだしていく。
「まあ、そのうち、ヤツらも飽きるさ」
「飽きるって、何に?」
「ウワサ話にだよ。ところで、おまえは本物のエミールか?」
「あんたまで! いいかげんにしないと、かみついてやるからね!」
それを聞いたアブセスが部屋のすみで青くなった。
ワレスは苦笑した。
「ちょっとした冗談だ。ところで、今日は赤い上着を着ていないんだな」
「だって、もう暑いよ。春だもの」
「でも、まだ長袖一枚では肌寒い。おれが春用の薄手の上着を買ってやろうか?」
「ほんと?」
とたんにエミールの目が、猫のようにキラキラ輝く。
まったく、現金なものだ。でも、そこがエミールのいいところである。物で釣りやすい。
「ああ。ほんとだとも。おまえの瞳の色にあわせて、若草色に水色の刺しゅうの入ったものがいいな。そのかわりと言ってはなんだが、思いだしたか? この前、話していた男のこと」
「なんのこと?」
「ほら、壁がどうしたとか、おかしなことを言っていた男がいたと話していただろう?」
「ああ、あれ」
エミールはひたいに指をあてて考えだす。
「思いだせないなぁ。ちょくせつ話したわけじゃないんだよね。小耳にはさんだだけだし」
「サンダルも買ってやろうか?」
「ああっ。なんか思いだしかけた。たしかね、前に一回、おれをさそったヤツだよ。あの日は先客があったから、やめたんだけど。うん、そう。仲間の一人がオバケに会って、おかしくなったんだ。それで食事を持ってくから、一人ぶんよけいに盛ってくれって言ってた」
「どの隊のなんというヤツだ?」
「うーん、そうだねぇ……」
わざとらしく首をひねっている。
「なんかくれたら、思いだすかも」
エミールの頭は贈り物に応じて働くらしい。
「しょうがないな。この指輪が欲しくないか?」
ワレスが左手にしていたプラチナの指輪を見せて言うと、すかさず、エミールは右手の青い石のほうを指さした。
「おれ、そっちのほうがいい」
「これはダメだ。いくらすると思ってる。スターサファイアだぞ。護符石とそろいで買ったやつだ」
「なんだよ。ケチ」
「おれの半年のかせぎより高いんだ!」
「いいな。いいな」
小隊長の半年のかせぎといえば、かたぎのユイラ人が国内でかせぐためには十五年はかかる。
ワレスは頭を押さえた。
(まあ、しかし、これでハシェドを救えると思えば……)
だいたい、ジゴロをしていたころに、紳士らしい風体を作るために、貴婦人からもらったアブク銭で買ったものだ。今さら惜しむいわれもない。
そろそろと指からぬいて、てぐすねひいて待っているエミールに、ワレスがさしだそうとしたときだ。上から声がふってきた。
「おれ、知ってるぜ。その話。前に誰かから聞いたことがある」
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