十章

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 すると、ユージイはとつぜん叫びだした。 「うわああああッ!」  たらいの水をぶちまけだしたので、ワレスは気に入りのアルラ製の絨毯(じゅうたん)を思って嘆息した。 「まあ、水だから、シミにはならないだろう。熱で少しちぢむかもしれないが……」  ふう、と大きく吐きだしたワレスのため息は、ユージイには聞こえていないようだ。一人でわめきちらしている。 「よりによって、アイツ、こう言いやがったんだ! 『おまえの大好きな母さんですよ』だって? バカにするな! ちくしょうッ! ずっと殺したいほど憎んでたんだぞ!」 「なぜ?」 「おれをすてて……おれや姉さんをすてて、男と逃げやがった。父さんは病気で死んじまう。姉さんはおれを育てるために、酒場で酌婦を……そのせいでヒドイめにもあって……くそッ! アイツ、殺してやる!」  ユージイはわめきながら、こぶしをふりまわしている。  ユージイの気持ちは、ワレスには自分のことのように理解できた。  ひとなみのあたたかな家庭を、ワレスが失ったのは五つのときだ。母が死んだあと、世界が百八十度、逆転した。正義は死にたえ、悪徳と強者だけが正しくなった。  世界を憎み、悪態をつくだけの日々のなかで気づかなかったが、今こうして自分と同じ痛みを持つユージイの態度を見て、ワレスは自分の憎悪の奥に秘めた、もう一つの感情を読みとった。  長いあいだ、自分自身ですら気づかなかった思いに。 「おまえが信じてほしかったのは、おまえが見た女の霊ではなく、おまえが自分の母を殺したいほど憎んでいることか?」  ユージイは静かになって、ワレスをながめる。ワレスの次の言葉を待っているようだ。 「それなら、おれと同じだ。おれの場合は父だったが」  この手で殺したことを後悔はしていない。だが……。  ワレスはユージイに歩みより、その肩を両手でつかむ。 「父が憎かった。酒に酔っては、おれをなぐった。アイツは悪魔だ。アイツはおれを悪魔だと言ったが。アイツはなぜか、母が死んだのは、おれのせいだと思っていたようだった」  ユージイは落ちつかないようすで硬直している。  ワレスはユージイの耳に息をふきこむようにして、ささやく。 「あんなのは、おれの父じゃない。おれが愛し、尊敬していた父じゃない。そうだろう?  おれも忘れようとしたさ。アイツが食事を作る母のかたわらで、おれに読み書きを教えてくれたこと。暦の読みかたや足し算、引き算。ファートライトの物語を聞かせてくれたこと。祭りの日には肩車をしてくれた。  一人で生きていくために、おれはそれらを忘れた。いや、忘れたふりをして、思いださないようにしていた。心にかたく鍵をかけて」  ユージイはうなだれた。 「…………」 「そうだろう? ユージイ。一心に憎んでいられるのなら、そのほうがいい。そのほうがずっと気持ちがラクだ。ほんとは愛していたから、裏切られたことが悔しいのだと……愛されなかったことが悲しいのだと、認めたくはなかった……」  ユージイの目から涙がこぼれおちていくのを、ワレスは自分のことのように見つめた。 (こんなバカらしいこと、おれに言わせるな。ハシェド。おまえのせいだぞ? おまえが、おれの心をすっかり弱くしてしまったんだ)  愛を知ると弱くなる。  薄汚い宿なしのドブネズミと蔑まれようと、女にたかるヒルと罵られようと、図太く、たくましく生きてきたのに。
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