優しい夜

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 「……こんばんは」  やがて、彼が部屋にやって来た。  目を開けて顔を見ると、彼は柔らかく笑う。  「……満月も綺麗で良い夜なのに、何だか酷い顔をしてるよ。大丈夫?」 「大丈夫」 「そう。それなら良いけど」  彼はそう言うと、いつも通りソファの端に腰かけた。  いつも通りの夜だった。  私は自分の呼吸の音だけに意識を傾け、ただぼんやりと空を眺めた。  開いたままの窓から見える空には、彼が言う通り美しい満月が輝いているのが見えた。部屋の中がいつもより明るく青いのはあの月の光だったのかと、ぼんやりと思う。  頭の遠いところで空が美しい、と思った。けれども、それは吐息と共に吐き出され、意識からすぐに抜け落ちた。  どのくらいそうしていただろうか。  時間の感覚はなかった。そうしていたのはたったの五分だったかもしれなかったし、一時間だったのかもしれなかった。しかし興味がなかったので、時計は見なかった。今が真夜中であることに変わりはない。  私は立ち上がると寝室に向かった。  扉を開けたところで振り向き、彼に目をやる。  彼はソファに腰かけたまま、来た時と同じように微笑んでいた。  「……おやすみ。今夜も良い夢を」 「……おやすみなさい」  私は挨拶を返して、そのまま扉を閉めた。  ベッドに横になると、すぐに睡魔がやってくる。あっという間に私は夢の中だろう。  目を覚ましたらきっと窓は閉まっていて、彼がいた痕跡は何もない。  彼が残してくれたのは、ほんの少し私の心を軽くしてくれた、という事実だけだ。  大丈夫、と私は心で繰り返した。それ以外のことはどうでも良かったし、頭に浮かばなかった。  余計なことは聞かない、ただ微笑んでいるだけの彼は、私が作り出した幻想なのかもしれなかった。  それでも構わなかったし、私は彼の正体について、やっぱり興味がなかった。  ただ、私が思う夜の優しさを溶かし込んだような、そんな存在だということだけが確かだった。
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