一 吉五郎、山をおりる

2/4
前へ
/122ページ
次へ
 里人たちはここのキツネのことを『吉五郎』と呼びならわしていた。 「吉五郎にえりゃあ化かされてまってよお」 「いかんわぁ、吉五郎に見つかってまったで」  いのちまでとられることはないが、気も狂わんばかりの目に遭わされ、その恐ろしさにキツネの力を思い知り、もう二どと山に足を踏み入れまいと、だれもがふるえながら心に誓うのだった。  そんな恐ろしいキツネだが、神さまのつかいとされるだけあって、静かな暮らしを好んだ。猟師を化かすのも、平穏な生活を乱されることをきらうからだ。  だが、いまは戦国時代。ここにも四方八方から、あらそいの喧騒が風にのって聞こえてくる。何千本もの矢が空気を切りさく音、鉄砲のパンパンいう音、刀や槍がぶつかりあう音、大地がふみならされる音、人や馬がたおれる音、どれもキツネたちが嫌う音である。  ときおり血なまぐさいにおいや火薬のにおい、焼けた家々のこげくさいにおいなども運ばれてきて、それぞれの季節の花々の香りを台なしにした。  幸い、この山が戦場になることはなかった。  しかし、ある日のこと。キツネたちが山のてっぺんにあつまった。     
/122ページ

最初のコメントを投稿しよう!

6人が本棚に入れています
本棚に追加