真夏の国からの旅人

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真夏の国からの旅人

 巨大な水晶のような氷柱が無数にそびえる谷があった。一年を通じて冷気と氷雪をふくむ風が激しく荒れ狂うその場所に、地元の人間は足を踏み入れようとはしなかった。不思議なことに、谷を一歩出れば四季それぞれの彩りが美しい樹海である。穏やかな気候の地方でその谷だけが永遠の冬に浸されているのだった。  人々はその谷を呪われた場所だと考え、近付こうとしなかった。例外的に、十数年ごとの夏に向こう見ずな若者が氷塊を採りに谷へ向かった。貴重な氷が手に入れば、巨万の富が築けると信じて。その誰一人として戻ることがなく、やがて谷から押し出された氷河の中でそうした若者が息絶えたままの姿で発見されるに至り、呪いの谷という観念はいっそう固くなった。  氷は、そんな谷の奥に千年も佇んでいた。  きらきらと青い氷柱が成長する屋根の下で、氷はただ雪と嵐の声を聴いていた。  人間の耳には唸りとしか響かないが、氷はそこに様々な言葉を聴いた。  嵐は語った。谷の外に広がる森林の緑や、森を潤す雨の音について。  また雪は遠く異国まで旅をし、石造りの街のランプの明りの色や冬至の華やかな祭りについてささやいた。  氷は谷から出たことはなかったが、隣人たちの言葉から世界を知った。  だが、氷が決して知ることのできないものもあった。  それは夏――雪と冬の風が届くことのない明るい熱の季節だった。
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