真夏の国からの旅人

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 谷は氷塊を盗もうとする人間を厳しく罰したが、無欲な者には門戸を開いた。  ある年、百年ぶりに人間が谷に足を踏み入れたとき、風は静まりかえり薄日が谷を白く照らした。  それはこの地方の人間には見られない濃い褐色の肌を有した青年だった。艶のある黒髪を束ねた彼は、淡い陽の光が氷柱に吸い込まれて吐き出されたり表面で反射されたりして、この世のなによりも美しい七色の文様を一面に描き出すのを、瞳をきらめかせて見守った。  氷もまた深い感銘とともに青年を見つめた。褐色の肌の民の存在はずいぶん昔に南方へ旅した雪片から聞いたことがあったが、間近で見るのは千年間で初めてのことだ。  やがて彼は氷の座する谷の奥までやってきた。濃い蒼色の氷柱が神殿のような景観を作り出しているのを眺めていた彼は、ふいに氷に気付くと訝しげな顔をした。それはやがて驚きに変わり、最後に彼は大きく笑みを浮かべて言った。 「よお、そんなところで何してるんだ?」  氷は驚いて青年を見返した。今までに氷に話しかけた人間はいない――谷を訪れた者たちは豊富な氷塊に夢中になって氷に話しかけたりはしなかったし、氷の方でも氷盗人への罰として氷河に喰わせてしまったからなのだが。  氷の様子をじっと見つめていた青年は不思議そうに首を傾げた。 「言葉が分からないか? こっちの方言は大分話せるようになったと思うんだが……」  それから彼はいくつかの調子の異なる言語で氷に再び語りかけた。彼の言葉の半分ほどは氷も知っているものだったので、先程の質問を繰り返しているのが分かった。
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