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彼が返事を求めているらしいことが氷にも飲み込めた。
氷は試しに、ふだん雪の欠片と語る言葉で返事をしてみた。それはちりちり鳴るひそやかな氷の微小結晶を介して伝えることばなので、突然冷たいものが頬に触れた彼は驚いた顔をした。だが、それだけだった。人間には雪の語らいを聴くことはできないのだ。
風と語る言葉も彼には伝わらなかった。
氷は残念に思った。彼はきっと、じきに言葉をかけるのを諦めてしまうだろう。
それは事実となった。だが、彼は谷を立ち去ろうとはしなかった。思うところがあったのか、青年はその日、氷の座に近い岩陰に毛皮を敷き詰めて野営しながら、氷に時折視線を送った。
満天の星空の下で彼が静かに眠りについた後、氷は自分でも名状しがたい感覚に沈んでいた。強いて例えるなら、それは足元に落ちている糸をつかもうとした瞬間にするりと指先から逃げ出してしまったときのような寂しい感覚だった。
氷は滅多に眠らず、夢を見ることはなかった。だが、ぼんやりとまどろんでいるような時間がないわけではない。いつしか氷は白昼の夢の中に迷い込んでいた。氷の周りで世界は白く、ただ眼前に横たわる褐色の青年だけがくっきりと存在感を示している。 人間の顔に、氷は尽きせぬ興味を抱いた。
閉じたまぶた、鼻、唇、頬……なんと不思議なものだろう。
ふいに、自分にも顔があったことを氷は思い出した。
まぶたは開いている。だが、閉じることも出来るはずだ――。
千年ぶりに、氷はまつげを震わせてまばたいた。
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