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サイファは納得がいかない様子だった。
「氷という名でも、身体まで溶けるとは限らないだろ? そりゃ、千年もこの谷にいたあんたは変わった奴かも知れないが、人間に近いものに見える。雪のように消え去ることはないんじゃないか」
氷は視線を落とした。
「わたしは、この谷を守っている。ここから出ていくことは出来ない」
サイファは少しいらいらした様子を見せた。
「誰から、何のために守ってるんだ?」
氷は言葉を失った。そんなことは考えたこともなかった。ただ――
「言われた。ここを守り、氷塊を盗むものに罰を与えよと」
「誰に言われて? 何のために?」
「忘れてしまった。何のためかは知らない。きっと、彼らは大きな氷塊を必要としていた」
「待て。それを言われたのはいつだ?」
「――千年の、昔」
サイファは絶句した。
「……なら、あんたは千年も前の約束を律儀に守り続けているのか。こんな場所で、たった一人で?」
突然、サイファは手近な柱に平手を叩きつけた。氷柱は硬く、折れこそしなかったが、無数のヒビが散った。
「そんな馬鹿な話があるか! 来いよ、谷から本当に出られないのか、試してみよう」
サイファの手が伸びたとき、氷は反射的に甲高い叫びを上げた。それは人の耳には届かないが、谷の氷塊たちは呼応して彼女とサイファの間に壁を作った。
氷壁の向こうに消えた娘に向かってサイファは叫んだ。繰り返し彼女の名を呼んだ。
だが、返事はなかった。
これ以上の長居は出来なかった。食料は尽きつつある。もどかしい怒りと悲しみの入り混じった心を抱いて、サイファは重い足を引きずって谷の出口に向かって歩み出した。
わずか十秒の後、谷は氷嵐の唸り声で満たされた。
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