真夏のフレンチ

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「夜だったらお電話で予約してくださいね。もう年なもので、夜すぐ閉めちゃうこともあるんですよ」  などとご婦人が笑っているはしから、ご主人が厨房でごそごそしながら「じゃあそろそろ一服しようかー」なんて声を掛けている。  ひとつひとつの料理は少しも奇をてらっていないのにかなりのレベルだと思うのに、とうとうまるまる一時間、僕以外の客が入っていない。そしてご主人もご婦人も全くそれを気にしたそぶりはない。その上夜もすぐ閉めるだなんて、この店、収支は大丈夫だろうか。さっきのメニュー表の価格もこの会計も、相当にリーズナブルなんだが。 「ありがとうございました。また、いらしてね」  気さくなご婦人に見送られ、駅まで戻る途中で検索してみたら、なんとこの店都内でも有数のフレンチ激戦区で数年前に惜しまれつつも閉店した店の移転先だった。老後を見据えて自宅近くでほとんど趣味として営業している店ということか。まさかそんな名店があるなんて思ってもみなかったが、どうりでうまいはずだ。来た道をてくてくと戻りつつ、満腹するまで食べたのに少しももたれていないことに気がついた。それどころか暑さにぐったりしていたはずが、いつの間にかどこからともなく活力がみなぎっている。  本当にうまいメシは舌でも脳でもなくて、身体が教えてくれるものだ。  あのご主人、ただものではないに違いない。
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