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「やっぱり、今日で別れよう」
彼の体の全ての部分が、私から離れ去る。
「気持ちを整理したいなら、数日後でもいい。とにかくここに縛られないでほしい。東京でデザイナーを目指せる人間なんてきっと一握りだから、集中してほしい」
「ううん、それは違う。悠仁といたら、いっぱいデザインのアイデアも浮かぶ。世界中カラフルに見えるんだよ」
「片道数時間。会えるのは長期休暇だけだろうね。それでも本当に、こんなきれいな目のままでいられる?」
私の瞳をのぞき込む彼の黒目は、今までにないくらい意志に満ち溢れていた。勉強しているときにも、家を手伝っているときにも見たことのない表情。私しか見ることのない悠仁が、ここにもあった。こんなときにまで、見つけることになるなんて。
「きれいな瞳じゃないと、きれいな絵なんて描けないよ」
「それなら、進学先変える」
「きよみ」
彼は私の右耳に口を付ける。ささやき声が、低く垂れ流される。
「君は、いつまでも、きよみじゃないといけない」
海岸線をなぞるように、彼の影が去っていく。私はその後ろ姿を呆然と見送っていた。手を伸ばそうとしても、腕は一向に動いてくれなかった。岩の陰に置いている自分の鞄が倒れていた。そこから、イヤホンだけが飛び出して砂に体を預けていた。今の自分と同じ姿だ、と思った。彼と選んだ、オレンジ色の、何度断線しても同じ物に買い替えたイヤホン。彼の左耳につながるための片方の線は、これから自分の耳だけにつけるのだろうか。
――日本には、「きよみオレンジ」っていうのがあるらしいよ、だからオレンジ色は君のテーマカラーだ。
いつかの彼の声が、孤立した左耳に蘇る。さざ波の音が、呼び戻したのかもしれない。
「キヨミ」――韓国の若者言葉で「可愛い人」といつも呼んでくれた、あの人の声が。
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